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オドレイはメッセージ画面に了解を示すスタンプが表示されたのを確認し、スマートフォンをエプロンのポケットに滑り落とした。
部屋の中央で仰向けに寝ころがり、プラスティックのウサギにかぶりついているガブリエルに話しかける。
“ガブ”
ガブリエルはころりと体勢を変えてオドレイを見る。
ウサギの両耳がガブリエルの小さな口に収まっている。
縦に並んだ大小ふたつの愛らしい顔を見て、オドレイは思わず相好を崩す。
そのままの表情で毛足の長い絨毯に腰をおろした。
“よかったわね。ケンとトオルが遊んでくれるわよ”
オドレイの様子から何を感じとったのか、ガブリエルはオドレイをじっと見つめる。
“う?”
“昨日挨拶した感じのいいムシューふたりよ。覚えているでしょう?”
ガブリエルはウサギを放り投げ、今度はうつ伏せになり、オドレイに向かって這い這いをしはじめた。
あっという間にオドレイの膝にたどり着く。
“おーお”
“ええ、もうすぐ来るんじゃないかしら? ”
よだれで濡れた口元をタオルで拭かれていた時、控えめなノックの音がした。
ガブリエルは廊下に続く扉を凝視する。
ノックの音がすると誰かが入ってくることを彼は知っている。
その認識に間違いはなく、オドレイの返事のあとに開いた扉から賢吾と透が現れた。
「「ガブ」」
名前に反応したガブリエルはおもむろに真剣な表情となり、やさしい微笑をたたえたふたりの方へ向かう。
大勢のスタッフに囲まれて育っているガブリエルは人見知りとはほぼ無縁だ。
“ボンジュール、オドレイ”
賢吾がオドレイに声をかける。
「こんにちは、ケン、トオル」
「突然お邪魔してすみません」
透も一瞬だけガブリエルからオドレイへ視線を移して挨拶をする。
「全然気にしないで。少し仕事の連絡をさせてもらうわ」
「どうぞ」
オドレイは再度スマホを取り出して、ディスプレイに指を滑らせる。
賢吾と透も靴を脱いで絨毯の上にあぐらをかき、あと5メートルほどの距離に迫ったガブリエルを待つ。
「ガブ、もう少しだ」
「ガブ、がんばれ」
名前を呼ばれるとうれしいらしく、ガブリエルはにこにこと笑いながら這い這いのスピードをあげ、両手を伸ばした透に向かって突進してくる。
「ガブ、もうちょっと」
ガブリエルはたどり着いた透の足を掴むと上体を起こして座る。
「すごいなガブは」
「もう座れるんだ」
ふたりが感動した途端にバランスを崩して真横に倒れかけるガブリエルを慌てた透がとっさに受け止める。
ガブリエルは透を見つめたまま両目を数秒真ん丸に見開いたあと、
「きぇー!!」
と叫んで笑いながら両腕をバタバタと上下に振る。
「ど、どうしたガブ?」
動揺した賢吾は手を出しかねている。
透がガブリエルの傾きをそっと元に戻して座らせた。
直後にガブリエルはまたもバランスを崩して倒れかけ、それを今度は賢吾が手のひらで支える。
ガブリエルの若草色の瞳には、慌てた表情をした二人分の顔がうつっている。
彼の中でぼんやりとではあるが、自分が倒れそうになると人の顔が急激に変化する、という認識がつくられる。
彼にとってそれは、とても刺激的でおもしろい光景なのだ。
「きぇーけけけけけ!!」
大声で笑いながら両手をバタバタと動かし、またもバランスを崩して、受け止められる。
「けけけけけ」
興奮して笑っているガブリエルを見て、ようやく賢吾と透は状況を理解した。
「そうか、倒れそうになるのを戻されるのが楽しいんだな」
「みたいだね、笑い方がおもしろい」
笑い合う3人にオドレイが話しかける。
「調子いいわね。5分ほど席を外しても大丈夫かしら?」
「構いませんよ」
「機嫌が悪くなったら、このおやつをあげれば大丈夫だから」
オドレイはガブリエルからは見えないように、お菓子の入ったポーチを賢吾に渡した。
ひたすら同じ動作を繰り返して笑い続けているガブリエルの背後に回り、別のドアから姿を消した。
倒れるガブリエルが絨毯に着く直前に止めて座らせると、笑い声と身ぶりがいっそう大きくなる。
大興奮するガブリエルの口からよだれがあふれ出た。
「うわっ、ガブ」
賢吾がスタイで拭う間だけ笑い声が止まり、賢吾の手が離れた直後に笑いはじめる。
「うわっ!めちゃくちゃかわいい!!」
「何回も繰り返してる。こういうおもちゃあるよな」
「起き上がりこぼしだね。全然飽きないのがすごい」
笑い過ぎてピンクになったガブリエルの頬をつつく賢吾を見て透は微笑む。
楽しんでくれているのがわかって安心した。
ガブリエルに会いに行こうと言い出したのは透だった。
昼食後にグレゴリーに連絡したところ、ガブリエルは午後1時過ぎから3時頃まで昼寝をしていると告げられ、時間をどう潰そうかと考え込んだ。
時差ボケと頭痛を完全に治したい透としては、本格的な観光をして疲労が重なるのは避けたかったのだ。
そんな透を賢吾はガブリエルへのプレゼントを買おうとショッピングに誘ってくれたのだった。
グレゴリーの送迎のおかげで楽ができたし、シャンゼリゼ大通りとは異なる雰囲気の街並みを賢吾と歩くのも、子供用品を扱うかわいらしい店でおもちゃを探すのも楽しかった。
今の賢吾はオドレイから渡されたお菓子ポーチだけでなく、土産のおもちゃも隠し持っている。
起き上がりこぼし状態のガブリエルに変化が起きたのは、オドレイが姿を消して4分後だった。
ガブリエルはちょうど賢吾と透の間に座っており、右へ左へと体を倒しては大喜びしていたが、まっすぐに座らせてもらった直後に両目を見開いたまま固まった。
「え?ガブ?」
「ガブ!大丈夫?」
ガブリエルがじっと見つめる先を確認しようと透と賢吾が振り返った時、扉がそっと閉まるのが見えた。
「誰かいたのか?」
「わからなかったけど、たぶん」
ふたりはいぶかしげに顔を見合わせたあと、ガブリエルへと向き直り、今度は賢吾と透が目を見開いた。
目の前にちょこんと座っているガブリエルの唇がへの字に歪み、眉間に皺がより、大きな瞳がみるみるうちに潤みはじめた。
透が、ヤバい、泣く!と思ったまさにその時、
「ガブ!ほら!お土産だよー!」
賢吾が20センチほどのボールを出し、ガブリエルの目の前で動かした。
バウンドさせると赤とピンクのラメが揺れながらキラキラと輝く。
ガブリエルの表情が一変する。
若草色の瞳はさっきまで溜まる一方だった涙をポロリとこぼしてなかったことにし、瞬時に湧き出た好奇心できらめいている。
ピンクの唇は驚きで大きく開いている。
「あーうっ、あーあー!!」
ボールに両手を伸ばすガブリエルのすぐ横に賢吾はボールをやさしく転がした。
「きぇーーーー!!」
笑顔のカブリエルは跳ねそうな勢いで這い這いをし、ころころと転がるボールを追いかける。
「ほんとヤバい。かわいすぎる」
賢吾はガブリエルを眺めながら、笑いをこらえている。
「それにおもしろい。あんなに顔変わる? 泣く直前から一気に笑うんだよ。ふり幅ハンパない」
一連の表情の変化を思い出した賢吾が堪えきれずに笑いだす。
「ツボに入ったな」
はははと笑い続ける賢吾を透は微笑い、ボールを手にして不思議そうな表情で賢吾を見つめているガブリエルの元に向かう。
「ケンはさっきのガブがおもしろくて仕方ないんだって」
「う?」
透はボールをつつく。
「これ気に入ったか? ガブの瞳の色と合うだろ?」
もう一度強めにつついて揺らせば、中のラメも揺れる。
「だーだー」
「そうか、気に入ってもらえてよかったよ」
透はガブリエルの小さなやわらかい手に自分の手を添えて、まだ笑い続けている賢吾の方へボールを転がす。
きゃっきゃっと大喜びしてガブリエルはボールを追いかける。
ボールに気づいた賢吾が自分の方へ向かってくるガブリエルにやさしく微笑みかける。
透に向ける微笑とは少しだけ種類が違う。
―まだきっと知らない表情がある。
それは悔しいようでもあり、楽しみなようでもあった。
「透」
賢吾がボールを透に向けて転がす。
もれなくついてくる笑顔のガブリエルに向けて透は両手を広げた。
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