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美術館の入口を兼ねたガラスのピラミッドが見えるカフェのオープンテラスで、チキンサラダをつついていた透が口を開く。
「寄木細工の床を見たら気分が上がったよ。ここをジャック・ソニエールが逃げてたって思うとね」
賢吾は初秋の風に髪を揺らして笑う。
「ははは、透はニケの後すぐに『ダ・ヴィンチ・コード』モードに切り替えてたんだね。気持ちはわかる。オレも『モナ・リザ』にブラックライトを当てたくなったから」
「『岩窟の聖母』の裏の鍵も手に入れたかったな」
ひとしきり『ダ・ヴィンチ・コード』ネタで盛り上がる。
開館と同時に入った二人はルーヴルで一番人気の高いイタリア絵画が展示されているグランド・ギャラリーをたっぷりと時間をかけて回った。
ルネサンス期の三大芸術家と言われるレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティ、ラファエロ・サンティの作品をはじめ、サンドロ・ボッティチェリ、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、カラヴァッジォなど、誰もがどこかで一度は目にしたことのある絵画がずらりと展示されている回廊は圧巻というほかない。
ここで賢吾は透の意外な秘密を知った。
マンテーニャの『聖セバスティアヌス』の前で、透が「あまり痛そうじゃないよな。処刑人はどうしてこれで死ぬと思ったんだろう」と呟いたのだ。
縦長の絵の中にいる腰に白い布を纏っただけの聖セバスティアヌスは体中を矢に射られた状態で虚空を見つめている。
そこに死の気配はない。
聖セバスティアヌスは処刑人が去ったあとに助けられる。
ふたたび捕まりこん棒を用いて処刑され、殉教するに至る。
グランド・ギャラリーにはキリスト教絵画も多いのだが、知識がなければ何をモチーフにした作品かを理解しないまま観賞することになる。
透の呟きは、彼がキリスト教の知識を多少なりとも身につけていることを示していた。
賢吾はプラスティックボトルのオレンジジュースを一口飲んで透に問いかける。
「透はさ、宗教に詳しいの?」
「詳しいっていうか・・・・通っていた中高一貫校がキリスト教系だったんだよ」
賢吾はなるほどと頷く。
一般的な日本人よりはキリスト教が身近にある環境だったのだ。
「オレは都さんに聖書を読むように指示されたから。おかげで英文を読むときには役立ってる」
「そうだな。海外ミステリーを読んでいて役に立つときもある。こんな風に役立つとは思わなかったけどな」
「まぁ、知識がなくても十分楽しめるレベルの絵画ばっかりだけどね。グランド・ギャラリーの作品ひとつをメインにして日本で展覧会が開けそうだ」
賢吾は館内マップをテーブルに広げる。
「次はどこにする? 人が多くなるから別の日にしてもいいけど」
透は迷うことなくシュリー翼0階を指さした。
「ギリシャ彫刻を見たい」
「そうだと思った」
賢吾は大きく伸びをしてゆっくりと立ちあがった。
居並ぶ古代ギリシャ彫刻を眺めながら、透は絵画よりも彫刻の方が好きだと思う。
冷たく硬質な大理石から感じるのは肌のやわらかさやぬくもり、まとった衣服の襞の繊細さだ。
それらを表現できる技術にも感動する。
目の前に立つミロのヴィーナスを見上げる。
この美しい女神も両腕が欠けている。
実在していない美を完成させるのも、芸術の力だと思う。
ミロのヴィーナスを堪能したあと、賢吾がお手洗いに行くと耳打ちしてくる。
透は頷いて賢吾を見送り、次の彫刻へと歩みを進めた。
隣の展示室へ入る。
観光客はまばらだ。
マットレスにうつ伏せで横たわった裸体の彫刻が目に入る。
『眠るヘルマフロディトス』
ヘルメスとヴィーナスを両親に持つギリシャ神話の神をモチーフにしている。
このヘルマフロディトスのために後のローマ教皇が当時最高の彫刻家だったベルニーニに命じて、マットレスを彫らせたのだ。
うわ・・・・このマットレス、クッションが効いてて気持ちよさそう・・・・またこの女性の後ろ姿の肉感的なことといったら・・・・
ぐるりと回り込んで裸体を見る透の目に、ふくよかな胸から腹、そして、女性の身体にはありえないものが映る。
え?!・・・・女性? 男性?
自分の目を疑っていると、くすりと笑い声が聞こえた。
顔を上げ、向かい側を見た透はふたたび固まる。
瞬時に思った。
ニケの頭がいる。
ゆるいウェーブの黒髪、美しい弧を描く黒い眉、長いまつ毛の下のグレイの瞳、繊細な鼻梁、ふっくらとした上品な唇―
ニケは完璧ではなかったのだ。
この頭を置いてこそ完璧になるはず・・・・
見惚れていた透の視界が突然真っ暗になった。
両目を覆うのは誰かの手。
掴んで引きはがそうとするが、なかなか外れない。
「ちょっ、賢吾やめろ」
握り込んだ手の感触が賢吾の手ではないことに気づいて表情を失くす。
“君はまた私とMr.タキタを間違えるんだね”
馴染みのある声とともにあっさりと両手が外れ、透は眩しさと驚きで目をしばたかせる。
“オスカー!!”
軽いハグをし、やさしい空色の瞳を見る。
“ハロー、トオル、調子はどう? 少し話せるかい?”
電話をするしぐさをするオスカーを見て、透は笑う。
“いや、今は驚きすぎて大丈夫じゃない。オスカーの調子は?”
“この広い宮殿でこの展示室を予測した私の頭脳に感謝しているよ”
“そうだよ、どうしてわかったんだ?”
“ルーヴルに行くことは君から聞いていたからね。短期滞在ではないから時間はたっぷりある。君はラングドン教授シリーズが好きで、人が多いところは苦手。となると、午前中に人の少ないグランド・ギャラリーを歩く。問題はランチの後だよ。『ミロのヴィーナス』か『民衆を導く自由の女神』か・・・・”
わざとらしく顎に手をあてて考え込むジェスチャーをするオスカーが可笑しくて、透は微笑う。
“さすがだな。それで?”
オスカーは顎にあてていた手をぱっと開いてみせる。
“わからないから、私が好きな彫刻を見に行くことにしたんだよ。30分しか時間がないからね。もう行かなくては・・・・ところで、 Mr.タキタ は?”
“もうすぐ来るはずだけど・・・・もう行くのか?”
“残念ながら。明日のディナーでゆっくり話そう”
微笑むオスカーの空色の瞳を見つめ返す。
“そうだな。・・・・あ、オスカーの好きな彫刻はこれ?”
“いや、『ランズダウンのパリス』、『瀕死の奴隷』。ドゥノン翼にある。前者は君を思い出させ、後者は君についてのイマジネーションを掻きたててくれる”
“ふぅん。わかった。鑑賞しておく”
きまじめな透の表情にオスカーはいたずらっぽい笑みを返した。
展示室に戻った賢吾はミロのヴィーナスの前を早足で通り過ぎる。
賢吾は彫刻よりも絵画を好んでいる。
平面のキャンバスに閉じ込められている一瞬のドラマ、あるいは永遠の物語を、映画を観賞するように感じとるのが愉しかった。
透よりかなり早いペースで彫刻作品を観賞し、隣の展示室に足を踏み入れる。
まず笑顔の透を見つけ、その話し相手を確認して顔をしかめた。
オスカー・フォン・シュリーフェンー美貌のドイツ人。
元恋敵。
おそらく“ 元 ”をつけていいはずだ。
今となっては友人のひとりだと言えなくもない関係だが、直接会うのは2月以来だ。
明日、ディナーに招待されているのになんでここに・・・・
いぶかし気に眇めた目の先で、オスカーは透に手を振り早足で次の展示室へと進んでいった。
「透、さっきの・・・・」
「ああ、オスカーがいたんだ。昼休憩に好きな彫刻を見に来たそうだ」
「好きな透を、じゃなくて?」
「そうは言わなかった。・・・・お前・・・・根に持ってるな」
「軽いトラウマなんだよ、根ぐらい持たせてよ」
賢吾のおかしな言い分を聞いた透は笑うしかない。
「なんだよ、根ぐらいって。・・・・あ!そう言えば、この彫刻、両性具有だよな?不思議な美しさがある」
賢吾は透の指が指し示す箇所に目を遣る。
「ほんとだ。ちょっとびっくりするね」
「だろ?俺も驚いて・・・・」
透はふと顔を上げて辺りを見渡す。
そういえば、向いに立っていたニケはどこに・・・・
その展示室にニケの姿はない。
賢吾は彫刻を見ながら話し続ける。
「でも、透の言うとおり不思議な美しさがある・・・・じっと見てると、片方しかない自分の体が欠けてる気がしてくるね」
透は賢吾に意識を戻して頷いた。
「ああ、なるほどな、不思議の中身はそれかもしれない」
目の前の彫刻、そして、ニケの頭を持った人間もー
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