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Musée du Louvre ・・・ルーヴル美術館・・・
緩やかな勾配が続く幅広い階段の踊り場に勝利の女神は立っていた。
正面からの海風を受け、大きく広げた両翼は後ろへたわみ、今まさに船のへさきへと降り立った右足にはりついた衣は優美なドレープを形づくりながら後ろへと流れている。
透は動きも息も止め、一心にその女神を見つめる。
『サモトラケのニケ』を知っている。
美術の教科書でも映画でも見たことのある有名な古代ギリシャの彫刻だ。
しかし、それがこんなにも大きく、これほどに美しいとは知らなかった。
女神に頭部と両腕はない。
透はそれを惜しいとは思えなかった。
むしろ欠けているこの状態こそが完璧だと感じた。
言葉を失って立ち尽くす透を賢吾は驚きを持って見つめる。
賢吾には、ひと目で透が『サモトラケのニケ』に心を奪われているのがわかった。
チョコレート色の瞳はきらめき、頬はかすかに赤らんで彼の内に踊りはじめた歓びを表している。
賢吾は女神像にちらりと目を遣る。
思っていたよりも巨大ではあるが、美しい像だ。
それは認める。
ただ、自分が透のように魅入られているかといえば違うと断言できる。
そっと賢吾は透から距離をとり、スマホの画面越しに透の横顔を見る。
写真を数枚撮影して気づいた。
透のこの表情によく似た表情を見たことがあると。
それは、透が坂田さん製作の直径5ミリの歯車を見た時だった。
手のひらに載せてじっと見つめていた横顔と、今の横顔との類似点は多い。
あの時の透は一心不乱に歯車を見つめたあと、ふぅっと小さく息をついて賢吾を見た。
賢吾の回想に呼応するように、目前の透がふぅっと小さな息を吐く。
名残惜しそうにニケを見つめてから、賢吾の方を向く。
「・・・・あまりにも凄くて、驚いた・・・・」
賢吾は微笑む。
さっきまでニケに奪われていた透の心が、自分のところへ戻ってきたことを素直によろこぶ。
「うん、息してないんじゃないかと思って心配したよ」
透はわずかにはにかんだ微笑みを見せる。
「そうだな、忘れてた」
「もう少し近くで見てみよう」
賢吾は笑みを深くして透の背に手をまわした。
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