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玄関の隅に置かれた、小さな木製の椅子。その上が彼の定位置だった。 妻に懐いていたからか私にその身を触らせてくれたことは数えるほどしかなかった。それどころか、甘えることも餌をねだることもない、ただ仕事から帰ってきた私にちらりと視線を投げかけるだけ。恐らくは彼の人生において――この場合猫生だろうか――私という人間は、飼い主のところにたまにやってくる、何だかよく判らない生き物でしかなかったのだろう。 まあ仕事とはいえしょっちゅう泊まり込みだ出張だと不在がちだったのだから、仕方のないことかもしれない。 だとしても、嫌がられたとしてももう少し彼に触れておくのだった。生命というものはこんなにも儚い。 玄関に入ると、そこにはいつものように彼がいた。 ちらり、とこちらに視線を投げかけて、すぐに興味をなくしたように身を丸める。 「え……?」 どういうことだ。 そのとき、部屋の方からパタパタとスリッパの音が近付いてきた。 「わ!びっくりした、そこにいたの?」 廊下に出てきたのは妻だ。その目はもちろん私ではなく、猫の方に向いている。腫れぼったい目。化粧っ気のない少し痩せた顔に、自分が与えた苦痛を思った。 「……そんなとこにいても、もう帰ってこないの。いつもみたいに待ってても無駄。ほら、寒いからお部屋入ろ」 猫は、見えるはずのない私の顔をもう一度ちらりと見ると、それからにゃあ、と小さく鳴いた。 少し甘えた、妻にしか向けなかった鳴き声。 「だから素直に甘えたら、って言ったでしょ?こうして毎日帰りを待つくらいなら、膝に飛び乗ってあげれば喜ぶって言ったのに」 声が、少しずつ湿っていく。 ゆっくりとしゃがみ込み、妻は俯く。 私ももう少し、甘えたかったなぁ。 そんなくぐもった呟きが聞こえて、もう触れることの出来ない妻にそれでも触れたくて、抱き締めるように腕を伸ばしてそっと包み込んだ。 にゃあ。 猫が椅子をひらりと降りて、妻へと近付く。 温かな身を擦り付けるようにして、まるで慰めるかのように妻に触れる。それから、彼の長い尻尾が、確かに私にもふわりと触れた。気がした。 私も、もう少し甘えてほしかったなぁ。 いつも寂しがらせてばかりいた妻にも、そして素知らぬ振りで私を待っていてくれたというこの猫にも。 にゃあ。 三たび目があった。 ああ、うん、頼むね。妻のこと任せるよ。
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