『When it was hot』

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退社した佐伯は飲み屋には行かず、一人所在無く繁華街をさ迷っていた。明治通り沿いを歩けば、連夜続く交通渋滞にぶつかり、靖国通りを進めば、夜の街を堪能した人跡にタクシーが連なっている。 「ふう、暑いな」 佐伯は既に緩ませているネクタイをさらにルーズに延ばす。残暑を終え新涼に差し掛かる時分。排気ガスでむせる感はあるものの、初秋に相応しい風が辺りを包んでいるにも関わらず、佐伯は身の上に気だるさにも似た不快な熱気を覚えた。 『当たり前だが、休日前夜は人が多すぎる』 都会の人海。昼ないし夜にしろ、この街では誰もが木の葉になりうる。行き交う人々は体内にたぎる血液のように流動する。身を紛らわせて己を誤魔化せる絶好の地。自らもとうの昔に一葉になり、血液となり、保護色のように街と一体化したはずだった。人ごみに対して抱いていた単純な煩わしさや、苛立ちといった感情はとっくに捨てたと思っていた。だが、久しぶりにぶり返している。都会に対する負の感情を。繁華街特有の、空回る熱気の中にある、底冷えした空気を。 『原因は分かっている』 その原因を忘れるため、気に留めないため、佐伯は雑踏の街を歩いているつもりだった。だが、アスファルトにこびりついたガムのカスのように、佐伯の頭からそれが離れない。 阿久津秀彦の名が。 『いっそ家に帰ればいいじゃないか』     
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