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その日、イスには雨が降っていた。白い外壁に囲まれた静かな景色、美しい自然に、音も無くやわらかな雨が降り注ぐ。イスを十三の居住区(ブロック)に分ける白い壁は象牙色の光を返し、ぼやけた緩慢な光は嫋やかにイス全体を包み込む。美しく安穏な世界は、まるで神話の中の一国であった。
この国には、憂い悲しむ者などいる筈が無いと、訳もなく信じてしまえるほどに。
「綺麗ね」
一人の女が、雨模様を眺めながら零す。書類に目を通していた男が顔を上げ、女の見つめる窓の先の景色をちらりと見遣り、目を細めた。
「……そうかぁ?」
その声に女は小さく笑った。窓の外を眺めたまま、赤い唇がカップに寄せられていく。こくりと小さく、女の喉が鳴る。
「相変わらず感受性が乏しいのね」
女は飄然とした態度のままで言葉を落とした。そこには遠慮もなければ、けれども男を攻撃しようというような意図も感じられない。
「失礼な。お前の感性にエラーが発生してるんだろうよ。この国には『雨』なんて降らねぇってのに」
男はぶっきらぼうながら軽やかに言い返し、テーブルの上にばさりと書類を落とす。ぐっとひとつ伸びをして、大きな欠伸を零した。
「この国には、『ゼットの思し召し』しか降らねぇだろ」
無味な物をただ噛んでいるような声で男が言う。女は「そうね」と返し、それでも窓の外から視線を外すことはしなかった。こくりと、琥珀色の液体を飲み込んで、女は言う。
「それでも、綺麗だわ」
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