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イスは美しい国だ。中央区ノアの白を基調とした街並や、イスの中にある十三のブロックを囲う白い壁もさることながら、イス全体にはいつも美しい自然が広がり、人々を鮮やかに包み込んでいる。空は時に柔らかく、時につんと澄んで、遠く、どこまでも青く広がっていた。木々や花々はぷるりと艶やかな生気を帯び、いつだってイスの嫋やかな光を浴びて風に揺れる。人々に射し込むのは、やわらかな陽光。母の眼差しのように温かく穏やかなそれは、この国の安寧を示し、人々の心に絶対的な安心感を齎すのに不足ないものである。
光は、この国の根幹であり、この国の平和を保つために必要不可欠なものでもあった。
「そろそろ時間よ」
女が細いヒールを鳴らして振り返る。テーブルの上に置いたカップに、琥珀の水面が半分ほどの高さで揺れた。まだ仄かにあたたかいそれは、けれどもう湯気を立ててはいない。女の呼びかけに応えるように、男は外套を羽織り、フードを目深に被って「あぁ」と頷く。大きな荷物を背負えば、大きな背丈も相俟ってそれなりの威圧感があった。
「お見送りのキスは必要?」
「お前ほんっとそういうの似合うな」
男はじとりとした目で、楽し気に微笑む女の瞳を見遣る。長い髪をさらりと流し、女はそのまま胸の下で細い腕を組んだ。にこやかに男を見上げ、けれどお見送りのキスなんてものをしてやる素振りは微塵も見せないまま、やがて唇を開く。
「気を付けてね」
その声に、男は小さく笑ってドアへと手をかけた。ギィ、と音を立ててドアが開く。扉一枚分近くなった雨音に、男は一度瞬きを挟んで、口を開く。
「イスの中に、争いは無いんだろ」
仄かに甘い香りは柔い雨によるものだろう。女はほんの少し目を細め、「そうね」と呟いた。
「んじゃまぁ、元気でな」
男の声が女に届くと同時に、ドアは男の手によって閉められる。閉じたドアの向こうの雨音と足音に、女はその胸元で煌く黒曜をそっと握った。
一人残った室内には暫しの静寂と、やわらかな雨音だけが小さく響く。それはまるで、どこかの誰かが、祈りをささげる時の震えにも似ていた。
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