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 木製の桟、水垢とヒビの目立つ曇りガラス、タイル張りの浴室、年季の入った五右衛門湯船。  此処がこの家の風呂場。  此処こそが儂の城。  開かれた窓から茜色の日が差す頃、湯船の中にて夢うつつでいる儂は、ある音を耳にして目を覚ます。  母屋の立て付けの悪い勝手口がガタと鳴り、草履を擦る足音がこちらへと向かって来る。  この家の爺様が、風呂の仕度をなさるのだ。  儂がお務めを果たすには、どうしても助力がいる。  爺様よ、老体に鞭打ってすまんが、今日も宜しく頼むなあ。  湯船に水を張ったなら、さあ、次は火おこしだ。  儂が見守る目の前で、爺様は竈に薪と枯れた松葉を差し入れて、馴れた手つきで火を熾す。  マッチのリンのにおいが微かに漂い、次いで松葉と薪の燃えるきな臭さ。  儂はこのにおい、嫌いじゃない。  風呂を焚くのに必要なもんだからな。  小さな種火は餌の松葉と薪をペロリと喰らい、鞴(フイゴ)で風を送ってやれば、煙と火の粉を吐き出して、どんどんどんどん大きくなった。  なんだ、爺様、芋も焼くのか?  そういや、坊主共が腹ぁ空かせてたっけ。  だが、八ツ時にしちゃあちと遅い。嫁御に小言をぶっつけられても知らねえぞ。  ああ、そうだそうだ。思い出した。  昔、爺様のおとっつぁんも、孫に食わそうと風呂焚きの火で芋焼いて、婆様に呆れられてたっけ。  年寄りが孫を可愛がるのは、人や時代は関係なしに、相も変わらずということだ。  儂がこの風呂場に仕わされてからこの方、あんたら一家のことはずうっと見てきたんだ。間違いない。  今も、そしてこれからもきっと、よくある風呂焚きの光景なのかもなあ。  おっと、思い出話はまた後だ。  竈の火が調子にのって暴れないよう、儂がしっかり見張らにゃあ。  しっかり働け、竈の火。  燃えろよ燃えろ轟々と。  湯船の大水、早よ沸かせ。  水はじわりじわじわ温もって、ほっかほっかの湯になった。  湯気も元気に登っているな。  そらそら爺様、湯を見とくれよ。  湯船の中を爺様の枯木のような手がひらりと泳ぎ、しっかとひとつ頷いた。  おう、準備ができたようだな。  さあてさて、儂――風呂場の神のお務めが始まるぞ。  今日もしっかり頑張らあ!  一番風呂は決まってる。  熱い湯が好きな爺様だ。  桶の湯を威勢よく肩に掛け、禿頭と顔を一緒くたに洗う。  石鹸を塗りたくった手拭いで体を隅々まで擦り、ザバンザバンと汗と垢混じりの泡を湯で流す。  いつものことだが、爺様の湯浴みは惚れ惚れするほど豪快だ。  これなら、邪気も驚いて逃げてくだろうよ。  体をしっかり清めたら、お次は熱い湯に肩まで浸かり、満足そうに吐息をひとつ。  そうかそうか、気持ちいいか。  どうだい? 儂の湯は日の本一だろう。  体の芯まで温めてやらあ。  湯船の中で気持ちよさげに吐息するのは、なにも爺様だけでない。  旦那も、坊主共も、婆様も、嫁御も、一日の汚れを落として湯船に入ると、あまりの気持ちよさに、堪らずこうなるのさ。  この瞬間、儂は仕事をしていると強く実感するのだよ。  儂はこの風呂場の付喪神。  儂のお務めは、この家の家族がたんまり付けてくる一日の汚れ疲れをキレイに清め、労うことで一日の最後をゆっくり休めるよう助力することだ。  そうして家族が入浴を済ませて、儂のお務めも終わる頃、嫁御がすっかりぬるんだ湯で湯船を洗いながらこう言うてくれる。  ――風呂の神さん、今日もお務めご苦労さま。    アンタのお陰で、今日も家族が気持ちよく一日を終えられる。    本当にいい湯だったよ。ありがとう。  ああ、そうだろうそうだろう。  儂がいれば、ここの一家は地上にいながら極楽気分を味わえる。  一家が実に気持ちよさそうにしてくれるから、それを励みに、儂もお務めにもっともっと精を出す。  ほんにな、こうしてお務めを果たせることの、なんと幸せなことだろうよ。  嫁御や。この一家は、きっとずっと安泰だぞ。  なにせ、儂がいるのだからな。  たとえ、湯船の形や釜焚きの燃料が変わろうと、時代も一家の顔ぶれも変わろうと、皆の幸せそうな顔はきっと変わりはしないだろうよ。  ずっと一家を見てきたから、わかるんだ。  そうら、嫁御殿、お前さんもそろそろお上がり。  そして、湯冷めをしない内に、あったかい布団の中でいい夢を見るんだよ。
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