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あの日から僕の人生には、小さく、それでいてギュッと甘い果汁が詰まったような、桃色の幸せが加わった。
お互いの名前を知ったのは、会って三日目。
「私は翔子って言うんだけど、貴方は?」
「僕は真也」
「ふーん。普通の名前だね」
翔子。
彼女はあまり興味がなさそうだったけど、僕は少し嬉しかったのを覚えている。
再び知らない誰かと名前を呼び合って、会話をできるようになるなんて、思ってもいなかったから。
それから毎日、彼女は僕が首を吊ろうとした木の前に来るようになった。
強い雨の日も、彼女は来た。
「あ、生きてる」
「翔子は毎日暇なのかい? 学校は?」
「暇だなんて、真也に言われたく無いわ。学校はつまんないから行ってない」
「そうかい。両親は心配してないの?」
「両親は居ないわ。祖父母と一緒に暮らしてるけど、別に何も言われない。生きていればそれでいいって」
翔子は胸を張って答える。
寂しくないのか? という言葉を、僕は閉じ込めた。
彼女は両親がいなくても前を向いているのだ。僕の後ろ向きな言葉を、彼女に聞かせるのは、なんだか良くない気がした。
夏が近付き、蒸し暑くなり、汗が噴き出すような季節に入っても、彼女は来た。
「真也、何してるの?」
「見て分かるだろ? 魚釣りだよ」
僕は魚の入ったバケツを見せる。
前の家から持ち出したお金を切り崩しながら生活していた僕にとって、川魚は貴重な食料だった。
滅多に笑わない彼女が、川魚を見た時にクスッと小さく笑った時は驚いた。
「どうしたの?」
「真也、首を吊ろうとした木の前で魚釣りって。笑いを取ろうとしているの?」
「あのなぁ、僕は生きるのに必死なんだよ」
言った後にハッとする。僕はいつの間にか、生きることに必死にしがみ付くようになっていた。
「いいことよ」
彼女はその言葉を馬鹿にはしなかった。
何度も言葉を交わし、彼女の事を知れば知るほど、僕の縮こまっていた心が広がり、浄化されていくのを感じた。
彼女の強さにつられるように、僕も強くなっていく気がした。
彼女のいる日常は暖かく、優しかった。
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