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どうやら蝉は、稲荷の社の側にある立派な楠木にいるようだ。
(煩ぇなぁ)
丹次郎は、その大楠の下で足を止め、蝉の声がする辺りを見上げた。
もう季節は秋である。朝晩は肌寒さすら覚えるが、そんな時分に蝉とは季節外れも甚だしい。
すると、黒い塊が丹次郎の目の前に落ちて来た。さっきまで鳴いていた、蝉である。仰向けになった蝉は、足を弱々しく動かしながら、断末魔のような最後の声を挙げていた。
死にぞこないの蝉。丹次郎の脳裏に、一人の老武士の顔が浮かんだ。
かの赤穂浪士の生き残りである。討ち入りの数か月前に、大石内蔵助から密命を帯びて離脱したが、その大石が本懐を遂げた事で密命は無意味なものになり、男にはただ、赤穂浪士を抜けたという汚名だけが残った。
その男は、虚無と自虐の中で酒に溺れ、血を吐いて死んだ。それが丹次郎の祖父である。
丹次郎は、七つまでその祖父に育てられたのである。母は名前を出すのも憚れるほどの大身旗本の妾であり、その間に生まれた丹次郎は母の実家に預けられ、そして祖父が死ぬと、同心である大佛家に養子に出された。
そこまで遠ざけられたのは、庶子であるが嫡男でもあったからだ。そこまでしなければ、跡目相続争いになると母は考えたのだろう。
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