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祖父は、丹次郎を大切に育ててくれた。卑怯な真似をするな。正しい道を選ぶ武士になれ。それはまるで、丹次郎を縛る呪詛のようでもあったが、三十を迎えた丹次郎はそれに反する武士になってしまった。
(嫌な記憶を思い出してしまったぜ)
死にぞこないの蝉ほど、哀れで見苦しいものはないのだ。
丹次郎は鼻を鳴らし、まだ鳴く蝉を踏み殺した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
永代寺門前山本町まで来ると、流石に人通りは多くなった。
この辺りは永代寺への参詣者目当ての茶屋が多く、中には庶民が逆立ちしても口に出来ないような、高級な料理茶屋もある。つまり永代寺門前は、本所深川の奢侈の部分だった。
「おっ」
丹次郎は、前方にある若い娘を認めると、そっと物陰に身を隠した。
その若い女は、奉行所でも目を付けている掏摸なのである。
確か、名前は〔堅川のお吉〕と言ったか。歳は十五か十六と若い。中々すばしっこい女であり、掏摸の手並みも見事なもので、奉行所でも手を焼いていた。
今も一人、談笑しながら歩いている商人が財布を抜かれている。
(我ながら因果なものだぜ)
運が良いのか悪いのか。こうした小悪党に、丹次郎はよく出会うのだ。しかし、その大半を見逃している。捕縛しても手間が増えるだけで、銭を貰って見逃した方が実利に繋がる。それに、世の中このぐらいの小悪党がいた方が健全というものである。
(来たか)
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