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私のしょうもない悪癖を知っているのは、こうしてここに乗り込んできた彼以外一人しかいないはずだ。
「湯の中の蛙は煮られてるのに気付かない。でも美弥子は蛙じゃないんだから、自分で湯から出なさいって。でもそれが無理そうだったら、遠慮なく他の人に頼って引き上げてもらえって」
しゃくりあげて泣く私に少しだけ躊躇うような間を空けて、でも真剣な声で彼は言った。
「美弥子さんを嫁にしたいです、って言ってあるし美弥子が良ければそれで良いって許可は貰ってある」
実際のところ、私はお風呂があまり好きではなかった。一人で泣けるところはとても良かったけど、その実、温い湯の中で一人で泣くのはどうしようもなく心細かったのだ。
「そんな話聞いてない…」
「言ってないから」
でも、彼の服を、湯だか涙だかでびしょびしょに濡らしながら思う。こうして湯から引き上げてくれる彼がいるんなら、そこまで好きではなかった風呂も、とても好きになりそうだと。
それまであった疲労感と悲しい気持ちは涙と一緒に湯に溶けて排水口に流されたのだろう。私の中に住んでいた湯の中の蛙は、浴槽からぴょこんと出ていった。多分きっと、もう戻ってくることはないのだろう。
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