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私と彼女はそれほど親しい仲ではなかったように記憶している。しかし皆が私のことを委員長と呼ぶ中で彼女だけは私の氏を呼んでくれていた。一種のアイデンティティの形成が彼女によって行われていたのかもしれない。
あれは、いつの話だったろうか。梅雨が明けたと予報されたのにまだ雨が降っていた木曜日だったと記憶している。木曜日とは呆れるほど退屈な日で、寧ろそういう雑念も何も抱かない平々凡々な曜日の方が覚えているものだ。
その日は放課後に雨が止んだ。彼女は教室の窓から身を乗り出して、雲が晴れていく空を見つめて私に話しかけてきた。後で思えばその言葉が私に対して向けられたものだと直感するのだが、何分窓の外を見ながら呟くように囁くので確証が得られなかった。二言目に私の氏を呼んだから私は私に対するものだと認識したのだ。
彼女の要望は些細なものだった。この雨上がりを共に帰ろうという誘いだった。私は勿論承諾した。断る理由は無い。恥ずかしながら私は私を正義の執行人とでも評価していたのだろう。その幼稚さに幻滅する今とは違い、その頃の私は彼女の言葉に何の裏も感じられなかった。
彼女の誘いは単に一緒に下校しようという青春の到来とは関係の無いものだった。彼女は私に打ち明ける為に呼んだのだ。
私達は土手沿いを歩いた。水嵩を増して灰色と茶色と黒を混ぜ合わせた濁流が砂利を削り川下へ川下へと運んでいる。雄大な自然に私達は勝てないのだろうと実感するそのほんの一部がそこに広がっている。しかし彼女の鮮やかな紺の傘が雨に泥を押し潰して歩いているのだから、安全地帯から眺める自然の営みは他人事である私達にとって心地良いものだった。
彼女は私に悩みを打ち明けた。彼女の悩みは眼のことについてだった。端的に言えば、右眼を手術する費用と準備が整ったので彼女が頷けば時を待たずして始まってしまう。しかし恐ろしいことに、日に日に手術に対する覚悟が弱まり、彼女は恐怖に怖気付いてしまっている。
私は相談を受けていた。南の空、今私達が向かっていく空へ雲は流れていく。同様に時は不可逆的に強制的に流れていくものだと皆が信じて疑わない。しかし彼女だけは違った。彼女は時を自らの手で進ませなければならない。幼い少女に手渡された権利と義務はどうも分不相応にしか見えないものだった。
私は手術を肯定した。彼女はその言葉を受け止めたのか、笑ってくれた。
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