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「僕はずっと恐れていたのだよ。梅林に懐いてしまった栗鼠をこのままにしていていいのだろうかと」
栗鼠の亡骸を撫でる男の指は壊れものに触れるように慎重だ。
「だから、こやつが森での生活に戻るように、努めて遠出を促した。ところがこやつは毎回僕のもとへ戻ってきてしまう」
男は両手で優しく栗鼠の体を抱き上げる。
桜のうろに残るのは、栗鼠の骸だ。
「そのうち僕も、彼を手放すのが惜しくなってね」
両手で掬った栗鼠を優しく見下ろす男を、女が凍てつく目で咎める。
「連れて行くのか?」
「こやつがそれを望んでくれたからね」
「なぜそうわかる?」
「開花を告げよと申したのは賭けだったのだよ。こやつが桜のことなぞ忘れて森で生き続けてくれるのならば、それで良いと思っていた。けれども、こうして忘れずに僕を呼ばうてくれたのだ」
どこかへ歩き始める男の裾を女が引いた。
「我もそのものが惜しいのじゃ。置いてゆけ」
男は困ったように柳眉をひそめて女を振り返る。
「こやつのいない日々が、寂しく虚しく辛うてな。僕からこやつを奪わんでくれ」
礼として亡骸は置いていこう。そう言って梅男は栗鼠を連れていってしまった。
「どこまでも勝手なやつめ」
女はほぞを噛む。
こんなことなら、栗鼠をどこか遠くへ隠してしまえばよかった。
さすれば栗鼠は生きながらえ、あんな弱々しい男になど連れて行かれなかったかもしれぬ。
「我はまた一人じゃ……」
ふと呟いた時、心にぽっかりと穴が開いた気がした。
これが寂しいということなのか。
あの男もこんな気持ちを味わっていたのだろうか。
うろの中に遺された冷たい亡骸を、女は指先で優しく撫でた。
(ありがとう……あんたのおかげでこんなにいいものが見られたよ)
栗鼠の声と小さな温もりが蘇る。
「お主も幸せだったなら、それでよいな……」
春の柔らかな薫風が吹き抜けて、桜の花びらをあたり一面に巻き上げた。
終
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