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櫻梅奇譚
木々が茂った森の中を抜けると、一ヶ所だけ特異な場所がある。
そこは木々のない土肌がむき出しになったひらけた場所で、真ん中に一本の桜の木が植わっていた。
青々とした葉が生い茂った一本の桜の木。まるで桜を避けるかのように、周囲には草や木の一本も生えていない。
天上からは刺すように暑い太陽の光が降り注ぎ、緑の葉を瑞々しく輝かせている。
その木陰に、じっと枝葉を見上げて佇む一匹の栗鼠がいた。
栗鼠はいつの間にかそこにいて、食料を取りに行くことも巣穴に戻る様子もなく日がな一日木の下にいる。
不審に思った女は、栗鼠にそっと近づいた。
「お主、そこで何をしておる?」
栗鼠は枝葉を見つめたまま、静かにこう答える。
「桜が咲くのを待っているのだ」
季節は初夏である。日差しは日に日に鋭くなっていくが、吹き抜けていく風は涼やかだった。
「桜は散ったばかりじゃ。咲くのはまだ先ぞ」
そう教えてやると、栗鼠は女を振り返る。
振り返った栗鼠の瞳は、朝露のようにつるんとした輝きを帯びていた。
「知っているさ」
「では、なぜ巣へ戻らぬ? そこでじっと見上げているだけでは腹も空こうし夜は寒かろう」
女の言葉に、栗鼠はふと悲しげに眉根を寄せる。
「ここで待っていては迷惑だろうか?」
迷惑ではなかった。
彼女の足元に誰かが来ることなんて、春の一時くらいだ。栗鼠は、桜を荒らすわけでも騒ぐわけでもなく、静かに彼女の枝葉を眺めているだけである。
「そのようなことはない。ただ……」
ただ、もう何日も木のそばから離れる様子のない栗鼠が気にかかっただけなのだ。
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