995人が本棚に入れています
本棚に追加
「岩崎くんっ!」
自身が声を掛けられたことには気づいたが、ぼんやりしていたために反応が少し遅れた。
「ちょっと、岩崎くん!」
壁と床に張られた人造大理石が快活な声を反射し、嫌でも颯真の耳に飛び込んでくる。
おもむろに声のする方を振り返ると、そこには紺色のスーツに身を包んだスレンダーな女性がいた。
以前の颯真なら、記憶力をフル回転させてその人物の氏名を割り出し、相手によって使い分ける営業用の笑顔で対応出来た。だが、ぼんやりと向けた視線の先の女性が思い出せない。
自身を『岩崎くん』と呼んでいることから、関係の中では親しい方に分類されるはずだ。
(誰だっけ……)
とりあえず片手をあげて呼びかけに応えると、彼女はヒールの音を鳴らしながら近づいてきた。
「――どちら様でしたっけ? って顔ね」
「いや……」
「元カノの顔、忘れるとか……。酷くない?」
そう言われてマジマジと見つめ返す。そこには長いストレートの髪をきちんと纏め上げた懐かしい顔があった。
颯真が入社したての頃に――後にも先にも一度だけではあるが――彼女がいた時期があった。それが、目の前にいる横山明莉だ。
当時は周囲の勢いに呑まれ、あれよあれよという間に付き合う事になってしまったが、今となっては初めて自分がゲイであることを明かした唯一の女性になってしまった。
そんな彼女は数年のキャリアを積んだ後で自ら起業し、今ではやり手の女社長としてビジネス誌を騒がせている。
「明莉……か?」
「お久しぶり。元気……ではなさそうね。その顔、何かあった?」
「別に」
「営業一課の主任様がそんな顔してたら部下にナメられるわよ?」
昔からそうだ。彼女はなぜか勘がいい。
だから会社を辞める時も、起業する時も、いつも先を見据えていた。
そう――颯真がゲイであると気付いた時も、彼女の鋭い観察眼が働いたのだ。
明莉は颯真の肩に手をかけて、背伸びをしながら耳元に顔を寄せると躊躇なく問うた。
「彼氏、出来た?」
「そんなもの、作っている暇はない」
「あら……。あなたの事だから可愛い男の子と一緒に暮らしているのかと思ったんだけど。それに、凄くモテるって噂で聞いたから、女性に転向したのかと……」
最初のコメントを投稿しよう!