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「頼む……。お願いだっ」  切羽詰まった彼の様子に何かあると確信した美弦は、その気は全くなかったが事情だけでも聞いてみようという気になった。 「どうして、俺なんですか?」 「お前にしか頼めないんだよ。こんなこと……恥ずかしくて」 「恥ずかしい? そんなにヤリたいんなら店にいっ……」 「ダメなんだ! 絶対にダメ! 店になんて行ったら俺の人生は終わるっ」 「は?」  言いかけた言葉を遮るように叫んだ颯真は握っていた手を離し、力なく床について項垂れた。  乱れた呼吸を落ち着けるかのように広い背中がゆっくりと上下している。  ひと際大きく息を吐き出したあと、颯真の口から思いがけない言葉が紡がれた。 「――理由は聞くな。とりあえず……ヤらせてくれ」  あからさまに嫌悪感を剥き出しにした美弦に気付いた颯真は、床に頭を擦りつけた。  部下である彼に対して、これほど強引でデリカシーがなくて、センスも雰囲気も全く無視、ただ『セ|ックスがしたい』と頭を下げる上司がどこにいる。  三十二年間生きてきて、これほど自分が嫌いになった事などあっただろうか。  颯真は黙り込んだままの美弦を薄目を開けて見上げた。  きっと、呆れているだろう。今まで、こんな情けない姿を部下に見せたことがないのだから。 「お願いだ! お前が望むことは何でもする! 残業はさせない! 食事も奢る! だから……」  両手を合わせて拝むように声をあげた颯真に、美弦は乱れた襟元を直しながらキッパリと言い捨てた。 「お断りします!」 「え……?」 「そもそも……。なんで俺があなたに抱かれなきゃいけないんですか? 恋人でもない相手の――しかも男のチ〇コを受け入れろなんて、セクハラもここまでくると犯罪レベルですよね。あーあ、貴重な時間を無駄にしたっ。俺、帰りますから」  颯真は押し退けて歩き出した美弦の腕を咄嗟に掴むが、思い切り振り切られる。 「藤原! お前のことが好きなんだよっ」  何気なく発せられたその言葉に、それまで我慢していた美弦の堪忍袋の緒がブツリと派手な音を立てて切れた。  例え一夜限りの付き合いが面倒だったとしても、何の感情も持たない相手の心の隙間に付け入ろうとする魂胆が見え見えな相手ほどイラつくものはない。そういう相手は男女関係なく完全にシャットアウトするのが美弦のやり方だ。
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