序章 ロンドン・1830年・冬

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序章 ロンドン・1830年・冬

 「あの、マッチは…マッチは要りませんか?」少女はか細い声で行き交う男たちに呼びかけるが、誰一人立ち止まろうとはしない。  もうすぐクリスマスを控え、いつもよりも人出こそ多いものの、賑わっているのは一部の高い物を売っている店ばかり。親方はここのところ、『ふけいき』がどうの、と頗る機嫌が悪い。お陰で、今朝も薄いオートミールだけしか口にできていない。  「もうちょっと良い稼ぎ先もあるにはあるんだがな。」ある日、親方が言ったことがある。だけど、親友のドリーが、そこだけは行っちゃいけない、と怖い顔をして言っていた。子供心にも、何がその先に待ち受けているのか、おおよその見当はつく。だからと言って、今日の寒さは格別で、このままでは凍えて死んでしまいそうだ。  いっそ売り物のマッチを擦れば、少しは温かいかも知れない。だけど、指先がもう感覚を失っていて、箱からマッチ棒を取り出すこともできやしない。  少女は寒風を少しでも避けようと、とある建物の階段脇に座り込んだ。まるでボロ雑巾のようなその姿は、ますます誰の注意も惹かなくなっているのだが、少女にはもう、そんな事を考える余裕さえ無かった。  日暮れと共に気温はますます下がり、少女にはもう、立つ気力さえもない。薄れて行く意識の中で、少女は幻を見ていた。今はもう亡くなってしまった祖母の優しい笑顔。湯気を立てている美味しそうなスープ。  「こんな年端も行かない子供に…酷いことしやがる。おい、しっかりしろ。」不意に荒々しく身体を揺さぶられ、少女はうっすらと目を開けた。目の前に、山高帽を被った細身の男性が立っている。「あ、マッチ…いかが…」殆ど条件反射のように、売り文句が口から漏れ出した。  「馬鹿な事を言うな、おい、ちょっと待ってろ。」男はそう言うと走りかけ、また戻って来た。「とりあえず、これでも被っていろ。」そう言うと、着ているコートを脱いで掛けてくれた。少女は突然の事に驚くしか無かったが、その男のぬくもりが何よりも有難かった。
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