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髪が濡れて、生え方の癖やつむじがはっきり見える。上気した肌が淡い桃色に染まっている。
逆子だった頃を思い出したのか、娘は両脚でお湯をかいた。ほんの二ヶ月ちょっと前には、わたしのお腹の中にいた赤ん坊。
もういいや。おしっこもうんちもしたいならすればいい。湯船で粗相したって、全部洗い流してしまえばいい。
そういえばわたしも逆子だったと聞く。だからだろうか、茜を妊娠中、わたしの母は逆子の件は心配していなかった。
数十年前、こんな風にわたしの母もわたしをお風呂に入れたに違いない。
若かった母。幼かったわたし。
空気を入れてふくらますベビーバスはなかっただろうし、ワンプッシュで出てくるベビーソープではなく石鹸を泡立てて。
わからないことがあればすぐネットで検索できる今とはまるで違う時代。
それでもどうにかやってたんだ。
そしてわたしは育ってきたんだ。
泣きながら、迷いながら、時間をかけて。
「茜」
娘を呼ぶ。
光に満ちた名前を呼ぶ。
湯気に煙った浴室の、オレンジ色の電灯の下で。
「お風呂、好き……?」
娘は硬い表情で身じろいだ。
ぎゅっと握られたこぶしがお湯の中でゆらめいた。見ていると、つぼみがほころぶようにゆっくり開いた。
何かを探すしぐさにも似て、泳いだその手はまた閉じられてしまう。
ほんの数秒のささやかなできごとが嬉しかった。びっくりした。宇宙の片隅に星が誕生したのにも匹敵する感動で、わたしは黙って涙を流した。今日を忘れない。
「……きっと好きになるね」
心が前に進める気がした。
これからわたしたちは何百回と一緒にお風呂に入るだろう。日常を積み重ね、ときには娘を叱る日もあれば、娘に嫌がられる日もあるに違いない。
未来は湯気の向こうにあって、娘とわたしはちゃんとコミュニケーションが取れるのだ。
家族三人での温泉旅行も遠からず実現できる。半年か一年先の幸せな光景。
女風呂に浸かって、成長した娘から恋バナを聞く日は何年先になるか、もしかしたらなかなかやってこないかもしれないけれど。
わたしは湯船から上がり、扉を開けた。廊下には夫が待っていて、わたしの声を聞きつけて、タオルを手にいそいそとやってくる。
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