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「茜を連れて温泉に行こう」
会社から帰ってきた夫が突飛なことを言い出した。
「無理でしょ。レンタカー? チャイルドシートないよね?」
「電車だよ電車」
「もっと無理。泣いたらどうするの。おむつ替えは? 授乳は?」
「大丈夫だって。先輩に聞いたんだけど、個室の電車に乗って、伊豆あたり。赤ちゃんに優しい宿もあるらしいしさ」
半信半疑のわたしに、夫がスマホの画面を見せる。
赤ちゃんに優しい宿か。
なるほど。興味を持たなければ知らなかったジャンルだ。
知らなかった言葉は他にもある。たとえば妊娠週数を表す「39w」といった表記。初めて見かけたとき、ネットスラング的に「笑」の意味だととらえていた。
「初マタ39wです」と書かれたネットの掲示板を見て、「三十九歳(笑)」と自嘲を込めているのだと本気で思っていたのだ。「マタ」が「マタニティ」の略だとわかるのにも少し時間がかかった。
それほどまでに、妊娠出産だの育児だのは遠い世界だった。こんなに大変だと知るはずもない。
「こういう宿なら、家にいるのとそんな変わらないよ」
「変わらないなら出かける意味ないんじゃない? そもそも物心つく前なんだし」
「そこは言葉の綾というか、赤ちゃんにも刺激を与える必要はあるんだって」
行こうよ行こうよと、夫はしつこい。
「首が座ったらね。腰が座ってからの方が安全かな」
「了解。楽しみだなぁ。あ、そうだ、温泉の練習ってわけじゃないけどさ、みーちゃん、茜と一緒にお風呂入ってみない?」
「どうしてそれをあなたから提案されるのかわからない」
「そう言わずにさぁ」
「じゃ、準備してくれるの?」
「もちろん」
夫が浴槽にお湯を溜めに行った。これは逃げられない。
わたしは頭の中で手順を組み立てる。
まず一人で自分の身体を洗う。お湯に浸かって温まったところで、夫に娘を連れてきてもらう。
娘を洗い、抱っこしたまま浴槽に入る。
しばらくしてから夫に迎えに来てもらい、裸の娘を託す。
所要時間は十五分。シミュレーションではうまくいく。
「みーちゃん、先にどうぞ」
「……ありがとう」
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