3

2/4
前へ
/10ページ
次へ
「茜を連れて温泉に行こう」  会社から帰ってきた夫が突飛なことを言い出した。 「無理でしょ。レンタカー? チャイルドシートないよね?」 「電車だよ電車」 「もっと無理。泣いたらどうするの。おむつ替えは? 授乳は?」 「大丈夫だって。先輩に聞いたんだけど、個室の電車に乗って、伊豆あたり。赤ちゃんに優しい宿もあるらしいしさ」  半信半疑のわたしに、夫がスマホの画面を見せる。  赤ちゃんに優しい宿か。  なるほど。興味を持たなければ知らなかったジャンルだ。  知らなかった言葉は他にもある。たとえば妊娠週数を表す「39w」といった表記。初めて見かけたとき、ネットスラング的に「笑」の意味だととらえていた。 「初マタ39wです」と書かれたネットの掲示板を見て、「三十九歳(笑)」と自嘲を込めているのだと本気で思っていたのだ。「マタ」が「マタニティ」の略だとわかるのにも少し時間がかかった。  それほどまでに、妊娠出産だの育児だのは遠い世界だった。こんなに大変だと知るはずもない。 「こういう宿なら、家にいるのとそんな変わらないよ」 「変わらないなら出かける意味ないんじゃない? そもそも物心つく前なんだし」 「そこは言葉の綾というか、赤ちゃんにも刺激を与える必要はあるんだって」  行こうよ行こうよと、夫はしつこい。 「首が座ったらね。腰が座ってからの方が安全かな」 「了解。楽しみだなぁ。あ、そうだ、温泉の練習ってわけじゃないけどさ、みーちゃん、茜と一緒にお風呂入ってみない?」 「どうしてそれをあなたから提案されるのかわからない」 「そう言わずにさぁ」 「じゃ、準備してくれるの?」 「もちろん」  夫が浴槽にお湯を溜めに行った。これは逃げられない。  わたしは頭の中で手順を組み立てる。  まず一人で自分の身体を洗う。お湯に浸かって温まったところで、夫に娘を連れてきてもらう。  娘を洗い、抱っこしたまま浴槽に入る。  しばらくしてから夫に迎えに来てもらい、裸の娘を託す。  所要時間は十五分。シミュレーションではうまくいく。 「みーちゃん、先にどうぞ」 「……ありがとう」
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加