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「お父さんな、大学入って、初めて一人暮らしを始めたんだ。古いアパートさ。その代り家賃は安かったな。風呂も一応ついていたけど、狭くてさ。湯船につかっても、足なんか全然のばせないんだ。ずっと体育座りさ。まあないよりはましだったけど。でもね、いつかきっと、思いっきり足をのばして入れる、でっかい風呂のある家に住むんだって、その時思ったんだ」
しみじみとそう言った敏行は、湯を掬い上げた手のひらで顔をひと撫でした。
隣でその様子をちらりと見た正敏は、父親に倣い小さな手で顔を拭う。
湯船の中、父と子は肩を並べ、ふうと息を吐いた。しかし二人が吐いた息には、それぞれ別の意味があった。敏行には古き良き思い出に対する感慨が、正敏には父が話したことに対する不安な気持ちが込められていた。
ゆらゆらと揺れる湯船の水面に視線を落とす息子に気付いた敏行は、「どうした?」とその顔を覗き込んだ。
正敏は俯いたまま、
「もしかしたら、邪魔なのかと思って……」
「邪魔って、何が?」
「僕だよ」
意味が分からず「はぁ?」と眉根を寄せる敏行に、正敏は訴えるような目を向けた。
「だって、今言ったじゃん。お父さんは思い切り足をのばしてお風呂に入りたかったって。せっかく家を建てて、広いお風呂ができたのに、いつも僕と一緒じゃそれもできないでしょ」
「バカだなぁ」
すぐさまそう言った敏行は、濡れた正敏の髪をくしゃくしゃとかきまぜる。
「何言ってんだ。今は足をのばすことなんかより、こうしてお前と一緒に風呂に入れることがどれだけ幸せなことか」
「本当に?」
「本当だ」
「じゃあ、これからも一緒にお風呂、入ってもいいの?」
「当たり前だ……ろっ」
ろの音と同時に敏行は両手で作った水鉄砲で息子の顔を攻撃した。
んにゃと訳の分からない奇声を発した正敏は、「やったな」と言って反撃を開始した。
あの頃はあんなことを言っていたが、成長するにつれ、正敏は一緒に風呂に入ろうと言うことがなくなっていった。こちらから誘っても、一応は入ってくれるものの渋々なのは見て取れた。思春期が近づくと誰だってそうだ。かくいう私もそうだった。結局、彼の気持ちを慮り、親子で風呂に入ることはなくなった。やがてあの子は大学に進学することになり、この春から京都で一人暮らしを始めた。
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