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昭和28年10月
ありら~ら~っ、朝から歌声がアパートの廊下に響いた。
ジン・ヨーコは渋谷のクラブで歌っている。夜中働いて、明るくなってからの帰宅だ。
「ヨーコ、あんたの声は特別なんだから、こんな所で安売りしないで」
「はーい、オモニ」
母親役のソヨンが苦言をたれた。
中島春雄は共同炊事場から出て来たところで、二人と出っくわした。
「お早う、ずいぶんご機嫌だね」
「へへ、クラブにラジオのディレクター来た。レコード会社のプロデューサーも来た。あたし、認められた。レコード歌手、ニダーッ」
おめでとう、と祝いを言って、中島は自室へ向かう。部屋の前で振り返ると、またソヨンが苦言を呈している模様だ。
昨日の残り飯に熱い茶をかけて、瓶詰めの塩辛で男の朝飯とする。
「中島さん、電報ですよ」
管理人の呼ぶ声に、中島は玄関へ行った。
ハハ、キトク、スグカエレ
「か、か・・・母っちゃ・・・」
思わず唇が震えた。山形の実家からの報せは不幸を含んでいた。
中島は東宝撮影所へ走った。演技協社の事務に休みを通告、このへんは大部屋俳優の気楽さだ。そして、またアパートへ走った。
簡単に着替えの下着をカバンに詰め、アパートを飛び出た。
上野駅に着いたら、もう昼だった。東北線の蒸気機関車が頼りない。仙台まで走って、明日の朝である。そこから乗り換えて山形へ、明日の夕方に着くかどうか・・・故郷が無限に遠く感じた。
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