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「ほんに、もう、大げさでの。ちいと気分が悪うて、横になってただけなのに。やれ医者や、やれ電報や、て。あれっから、恥ずかしゅうて、街の皆さんに顔向けできんわ」
夕食の席で母は笑った。春雄のために馬刺しを出してくれた。
「ほんに顔真っ青で、息も絶え絶えだったし、の。哲夫が慌てたのも、ありゃ当然よ」
父の一哲がしわの増えた顔で笑う。兄の哲夫の名は父からもらっている。
「ハルよ、仕事はどうだ?」
兄が話題を振ってきた。まだ小さい長男をひざに乗せ、すっかり父親の貫禄が出てきた。
「うん『太平洋の鷲』を撮り終えたばかりだ。短いけど、横っ面が映るはずだ」
「おっ、背中から横顔に出世かい」
めでたい、と皆が喜んだ。
5年前まで、春雄が店を手伝っていた。長兄の哲夫が復員して来て、三男の春雄は兄に店の仕事を譲った。そして、俳優の道に入った。
すでに、兄には嫁があり、子供もできていた。よほどの事が起きなければ、ここに春雄の居場所は無い。
翌朝、仏間で戦死した次兄の位牌に手を合わせた。
店が開く前に駅へ向かう。兄の哲夫が一緒に来てくれた。
「こんなにもよう、あれこれもらっちまって、復員して来た時のあんちゃみたいだ」
春雄は両手に大きなカバンを持ち、背にはリュックを負った。どれもパンパンに物が詰まっている。
「足りない物があったら、いつでも報せえよ。おまえも、すっかり東京言葉になってまって。次はの、嫁さん連れて来い」
「よめ、か。そいつは、難しいかな」
「連れて来たらな、父ちゃも母ちゃも大喜びだ」
ひええ、春雄はうなった。両手と背中の荷物より重い宿題が来てしまった。映画の主演を取る方が、まだ簡単そうだ。
蒸気機関車が駅のホームに入って来た。
店の開店時刻が近い。兄は改札をくぐらなかった。
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