昭和28年7月

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「中島先生、よろしく」  河津は場を退き、中島が欄干に寄りかかった。よろしく、とベテランから持ち上げられた。若手としては力が入るところ。 「手は、もうちょい先ね」  中島の姿勢に一口入れて、河津は橋から降りた。カメラマンがオーケーサイン、フレームから河津の姿が出た。  顔を下向きにしても、中島は橋の両側で動かない俳優たちを見ていた。どれも見知った大部屋俳優だ。今日は、彼らもふき替えだ。 「用意・・・スタート!」  監督の号令だ。  中島は欄干にもたれながら、少し体を起こす。が、次には脱力して欄干に突っ伏し、ずるりと腰が欄干を越えた。  ばっしゃーん、大きな水しぶきがひろがった。  水に沈んで、中島は体を回転させた。背中から水面に浮き上がる。これも演技の内、悪役が切られて死んだのだから、顔を上にして浮き上がるのは無い。  1・・・2・・・3・・・中島は水の中で数えていた。息を止めて死体の演技も楽じゃない。  ・・・9・・・10・・・まだカットの声がかからない。少し焦れた。 「はい、カット! おーい中島くーん、なかじまぁっ!」  水の中でも、安西監督の大声は十分聞こえていた。  中島は悠然と足を水底に下ろし、起き上がった。頭に手をやり、かつらを確認した。ずれてない、これがふっとんでいたら撮り直しだった。 「脅かすなよ」  助監督やカメラマンも安堵の笑みを投げてくれた。  中島は衣装部屋に入る前に裸になった。悪役らしい大袈裟な衣装はずぶ濡れ、衣装係に返して風呂へ入った。  湯に全身を沈め、鯨のように頭を出して息をついた。普通なら、名のある俳優や女優くらいしか風呂は使えない。大部屋俳優が撮影所の風呂に入るのは、こんな機会だけだ。  がらら、戸が開いて、河津清司郎が入って来た。 「おおっ、中島先生、いらしたんですね。ささ、お背中、流しましょう」 「やだなあ、逆でしょう」  ままま、と河津は強引に中島の背をとった。若手としてはベテランの誘いを断り切れない。
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