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「ケガは無いようですね、良かった」
河津は中島の背を見て、うんうんと何度も頷いた。
「橋から落ちる時のね、手足から力が抜けているところが、とても良かった。へたなふき替えさんだと、落ちる時になって、突然元気良くピョーンと飛んでしまう事がある。そういうのだけは避けたかったんですよ」
「へえ」
中島は生返事をした。自分では意識していなかった細かい所だ、指摘されて嬉しくなった。
実は、今日のふき替えは河津が中島を指名してものだった。監督だけでなく、ベテラン俳優も新人俳優の目利きをする。河津の期待する以上の演技ができたようだ。
「キングコングがね、ビルから落ちる時、途中で何度かひっかかるんです。あれと同じ悲哀がある落ち方でしたね。味がありました」
「キングコングですか・・・」
『キングコング』は1933年にアメリカで公開された古い怪物映画だ。この年の冬、リバイバル上映されて人気を博していた。
河津が言うシーンは映画のラスト近く、キングコングがエンパイヤステートビルのてっぺんから落ちる場面だ。カメラを引いたロングショットで、大きかったはずのキングコングが小さく見える。
「惚れちゃあいけねえ女に惚れた男の末路、と言いますかねえ。人魚姫を男に置き換えると、あの映画になる」
「人魚姫がキングコング?」
へへへ、河津は笑った。
中島は首をひねるばかり。童話の愛らしい人魚姫と、どう猛な巨大ゴリラの共通点が分からない。
風呂上がり、河津は財布から100円札を出し、中島に握らせた。
「また、この次もお願いしますよ」
「ありがとうございます」
中島は深々と頭を下げた。河津は手を振り、軽い足取りで出て行った。
撮影所からの帰りがけ、中島はラーメン屋に寄った。ゆで卵を二つ、多く入れて食べた。汗をかきながら麺をすすり、汁を残さず飲んだ。
河津さんのふき替えなら、次は火の中でも飛び込んでやるさ。つい、そんな気になっていた。
7月27日、中朝連合軍と国連軍は朝鮮戦争休戦協定に署名した。3年前に始まった戦争は、1年以上の長い膠着状態を経て、ようやく休戦に至った。
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