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それで我に返った彦蔵は、妹に駆け寄ると、二つの身体を繋ぎ止めようとした。そうすれば、妹が息を吹き返すのかと思ったのだ。
男は、酒気を纏わせていた。そして、座った目で彦蔵を見据え斬ろうとした。しかし、それは駆け寄った町人達や男に付き従う供によって止められたが、今思えばそこで死んでいた方が、世間様にとって良かったのかもしれない。
あの瞬間、妹の身体から奔騰した鮮血が脳裏に浮かぶと、彦蔵は記憶を打ち消すように首を振り、井戸へ向かった。
本所深川今川町にある、彦蔵長屋の朝は遅い。まだ他の者は夢の中にいるようである。
彦蔵は表店の料理茶屋〔きせ〕の主であり、その裏店である彦蔵長屋の家主でもある。元は表店の一室で暮していたが、四年前に喜勢が死ぬと裏店に引っ越した。喜勢がいたので〔きせ〕にいたが、元々はこうした日陰が自分には似合う。
井戸で顔を洗うと、すぐに身支度を始めた。
袖を通すのは、裏長屋住まいの人間には似つかわしくない、上等な着物である。故郷の夜須にいた頃には触れる事さえ出来なかった代物だが、流行りの店の主なだけに、見栄えも気を遣わねばならない。
それから彦蔵は、押し入れから白鞘の匕首を取り出し、上着の裾に隠すように腰へぶち込んだ。
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