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第1話
今日はいつになく暖かな日だった。
夕食を終えたシェリーは、久しぶりに海を見渡すことができるテラスに出てみることにした。冬の間であっても、テラスの清掃を欠かすことのなかったメイドの綾は、気まぐれな女主人の思いつきにも動揺することなく準備を進めた。
そして、外へ。やはり、夜気にまだ肌寒さは残っている、しかし空にはそれを忘れさせる星の輝きがちりばめられていた。
シェリーの屋敷は淡路島洲本沖の小島にあり、しかも島に住んでいるのはシェリーと綾二人きりのため、屋敷の照明を落とすだけで星空を眺めるために必要な闇を得ることができた。
錬鉄の椅子に腰をかけ夜空を見上げる。
今夜も夜空は素晴らしい。シェリーが持っている空に浮かぶ星座や星の位置や名前などの知識はあやふやなものだったが、彼女は夜空を流れる星の瞬きを眺めているだけで十分だった。
片手に綾から手渡されたホットワイン、マグカップのぬくもりを感じながら、夜空を見上げる。
しかし、この至福の時間も長くは続かなかった。
「あぁー」静寂を破る突然の叫び声。
シェリーは怒りに顔をゆがめ、真っ赤な爪で金色の髪を掻きむしり始めた。虫だ、虫がいる。気分がいい所で羽音を立て耳元を掠め飛んで行った。
「シェリー様」
シェリーが声の方向に目をやると、虫よけが飛んできた。彼女はそれを空中で受け取ると、ため息をつきつつ手や顔などの皮膚に塗りつけた。いつもこれなのだ。綾は顔だけ見ていれば可愛い少女に見える。とてもではないが、雇用主に物を投げてよこすようには見えない。しかし、どんなにかわいくとも、平気で物を投げつけてくるのだ。
「まったく忌々しい。人がいい気分に浸っているところに、耳元で羽音をさせるなんて…」
シェリーは事前に虫よけを塗ってこなかったことを後悔した。羽虫や蚊など見つけ次第叩き潰してやりたいところだが、この薄闇の中では目が利かない。かといって、明りをつけると星空が楽しめなくなる。まあ、奴らは光の有無に関係なくやってくる。屋敷は雑木林に囲まれているため、殲滅などあり得ない。
背後で綾が悲鳴を上げた。また例の黒光りする怪物が出たのだろう。闇の中では奴らも元気に走り回る。殺虫剤を噴霧する音と共に薬剤の刺激臭が漂ってくる。
薬剤で追いたてられた怪物がシェリーの足元にやってきた。彼女は怪物をヒールの高いサンダルで外の草むらまで蹴り飛ばした。怪物にとっては悲劇だが、金髪の巨乳美人に高価なハイヒールで蹴り飛ばされるのはむしろ御褒美だと感じる男は少なくないかも知れない。
自分でまき散らした薬剤に包まれた綾が激しくせき込んでいる。意匠をを凝らしたフリルだらけのエプロンのポケットの中身が虫よけや殺虫剤でいっぱいなんて妙な話だ。
「シェリー様!このテラス、ガラス張りにできませんか?それですべて解決できると思うんですが…」
それは何度も聞いた言葉だった。そしてシェリー自身も何度も考えたが、この開放感を捨てることができず、虫よけや蚊取り線香、殺虫スプレーに頼っているのだ。
「シェリー様、あれを」綾はそばにいて夜空を指さしていた。その先にあるのは輝き尾を引く流れ星。
「何かお願いをしないと…」綾は真剣な顔で流れ星を眺めて言った。
お願いするなら何がいいか?
お金は十分あるし、入ってくる。それに伴う怪しげな力も手に入れた。容姿についても今のところ問題はない。
それなら今なら何がいいか?
虫か。虫を追いだしてもらえたらどんなにうれしいだろうか。
流れ星は二人の女性に見送られ、屋敷上空をかすめ南の雑木林へと飛び去って行った。
そして、突然の轟音と突風によってシェリーの妄想は破られた。椅子から投げ出され、錬鉄のテーブルも倒れ、マグカップのホットワインが飛び散る。悲鳴を上げ倒れる綾。木々のざわめき、くぐもった激突音。
これらは一瞬のうちに起きた。
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