付録

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1974年ぐらいからは血行障害や心臓疾患(心室性期外収縮)が悪化し、肩痛・肘痛を抑えるために服用していた痛み止めなどの影響で体重も激増し、成績は年々下降していった。 1976年は野村克也選手兼任監督の率いる南海ホークスに移籍、先発投手として登録されたが病気で長いイニングを投げられず、思うような成績が残せなかった。敬愛する野村克也監督から救援投手の道を示され、復活した。 1978年から広島東洋カープに移籍赤ヘル軍団の黄金期を支えた。1979年の日本シリーズではノンフィクション作家山際淳二氏著の「江夏の21球」にあるような活躍をして広島東洋カープは近鉄バファローズを下して日本一となっている。 1980年からは日本ハムに移籍し大沢 啓二のもと日本ハムでも活躍した。大沢の親分肌は江夏の気性に合っていたようだ。彼は野村克也といい親分肌の人間とはウマが合っているようだ。 1984年には西武ライオンズに移籍するものの思った成績があげられず、また広岡達朗監督ともうまくいかず引退した。1985年には大リーグのミルウォーキー・ブルワーズにも挑戦をした。 現役引退後は1985年から1992年まで、野球解説者、野球評論家を務めた。一方でタレント及び俳優としても活動していた。 1993年に覚醒剤所持の現行犯で、覚せい剤取締法違反により逮捕され、2年4か月の実刑判決を受けた。1995年4月に仮釈放をした。その後は解説者や執筆業で自分のことに関しての連載をしている。 司馬遼太郎作品を愛し、中でも「燃えよ剣」の主人公土方歳三を好んだ。 彼の胸中は今、何処へむかっているのだろうか
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