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1981年度の巨人軍には新人王に輝いた原辰徳(はらたつのり)がいた。
その年の原選手の成績は本塁打22本 打率は268であった。
打率ベスト10には篠塚利夫(しのづかとしお)357で二位、元DeNA監督であった中畑清(なかはたきよし)322で七位にはいった。
打撃陣はこのような選手を中心に活躍した。
1981年4月4日に開幕し、当時のラインアップは
6河埜 7淡口 5中畑 8ホワイト 9トマソン 4原 3松原 2山倉 1西本 D三沢
投手陣は大変素晴らしく、江川卓が投手五冠王であった。
最優秀選手 江川 卓 (巨 人) 初
最優秀防御率 江川 卓 (巨 人) 初 2.29
最多勝利 江川 卓 (巨 人) (2) 20
最高勝率 江川 卓 (巨 人) 初 .769
最多奪三振 江川 卓 (巨 人) (2) 221
しかし、投手の最高名誉とされる沢村栄治賞は最多登板だけ上回る同じ―チームメイトである西本聖が受賞した。
この受賞がのちに二人の不仲説の噂の発端となる。
まず、西本聖の生い立ちから1956年6月27日生まれ、愛媛県松山市出身で高校は松山商業へ進学したが甲子園出場は叶えていない。
1981年3月、幸せな新婚家庭に突如悲劇が襲いかかる。西本がフロリダのキャンプに参加中、新居の台所でガス爆発事故が発生した。このような悲劇にも西本のメンタルの強さを知っている藤田監督の指名で開幕投手としてマウンドに上がった。
西本聖のプロ野球生活は1974年のドラフト外で第一次長嶋茂雄監督の率いる巨人に入団したことから始まっている。
この年はドラフト一位指名だった定岡正二(さだおかしょうじ)だった。
鹿児島実業高校で高校二年生のときと三年生のとき甲子園に出場した。
高校三年生のときは準々決勝で原辰徳がいる東海大相模と延長15回の死闘を演じ、当時は鹿児島県勢としては初のベスト4となった。
当時のマスコミの関心は定岡正二であり、西本も定岡をライバル視していた 。
長嶋茂雄第一次監督のもとで、初年度は「読売巨人軍」創設始まって以来の最下位だった。
第一次長嶋茂雄監督のもとでは1975年~1980年までセ・リーグ優勝2回はあるが日本シリ―ズは一度も制していない。
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