第八章

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第八章

金曜3限の授業終わり。 教授から、回収したレポートを一緒に運んで欲しいと頼まれた裕一郎は、教授室にレポートを運んでから宇宙物理学概論の教室へと向かった。いつもなら余裕がある移動時間も、教授室を経由してからとなると時間がない。出席を厳しく取る教授ではないが、好きな授業なので遅れずに行きたかった。いつも通り、ホール後方の出入り口から教室に入る。今日は、先週小テストをやると宣言されていたせいか、いつもより出席率が高かった。黒板と教壇を囲むように半円に席が設けられた階段教室は、いつもなら座った席の隣に荷物を置く余裕があるが、今日はほとんどの席が学生で埋まっている。すでに教授が話し始めていて、祐一郎はぱっと目についた後ろの方の席に腰掛けた。 「…………ふぅ」 席に着くと、背負っていたリュックからノートと筆箱を取り出す。3限の授業終わりに、口が半開きのまま急いで筆箱を鞄にしまったことを忘れていた。机に置いた拍子に、筆箱から消しゴムが飛び出し、床に落ちてしまう。 「あ…………」 床に落ちた消しゴムは、隣の人の足元まで転がって行ってしまう。それに気付いた隣席の学生が、屈んで取ってくれた。そのまま手渡してくれるのかと思いきや、相手の動きが止まる。 「すみません、ありがとうございます」と言いながら、不思議に思った祐一郎は、相手を見上げた。 「……ぁ!」 授業中でなければ、勢い余って大きな声を出してしまったかもしれない。何とか踏みとどまった祐一郎は、驚愕の表情で固まる。隣に座っていたのは、圭介だった。 「”日野”?」と、小さな声で彼は呼んだ。それは、祐子に向けられていた優しい視線ではなく、相手を訝しむ、体に突き刺さるような眼光。いつも前方席にばかり座っている圭介が、こんな後方に座っているのは珍しい。身動ぎ一つしない祐一郎に、圭介は消しゴムを差し出した。反射的に、受け取るために手を差し出す。圭介の手から、祐一郎の手に消しゴムが渡った瞬間、少しだけ触れ合った指先と掌。圭介の指が、感電したように弾かれて手を引っ込めた。 ――ああ……。 少し戸惑ったように見えた表情。しかし、すぐに興味を失ったように教壇の方を向いてしまった。花火大会の帰り、優しく握ってくれた圭介の手とは違う、触れてしまったら、何かに感染してしまうかのような、そんな触れ方だった。圭介は、どこまで把握しているのだろう。好きだと思っていた女の子が、男だったとわかっていたら、こんなショックなことはない。気持ち悪がられて当然だ。 ――それなのに……。 圭介が隣にいる。それだけで、心臓がばくばくと大きな音を立てる。無気力に過ごした夏、前向きになろうと必死だった秋を過ぎようとしても、心の中にはまだ圭介への気持ちが残っている。訝しむような視線を送られても、圭介への気持ちは消えてはくれない。全てを話して、成り行きとは言え女性と偽って会い続けていたことを謝罪するべきなのだろう。しかし、今更なにをどこから説明すればいいのかわからない。この事実を、どう説明したとしても、圭介は裏切られた気持ちになるはずだ。優しい圭介の表情、祐一郎を安心させる声音。その圭介から、否定的な言葉を聞きたくない。祐子と圭介の思い出を上書きするのがこわい。 ――こんなの、自己中心的で自分勝手だ……。 小テストも無事に終わり、授業が終わると、一斉に学生が動く。大きな教室のため、外へ出るにも列が出来る。今度はきちんと筆箱のチャックを締め、リュックに荷物をしまった。 隣に座っていた圭介は、さっさとその列に並び、教室の外へと出て行ってしまった。その背中を見て、祐一郎は泣きそうになった。まだ、こんなにも気持ちが溢れてくる。それなのに、もう普通に声を掛けることすらできない。祐一郎が圭介にしたことは、それだけ残酷なことなのだから。 ――決めた……。 祐一郎として、圭介に関わらない。もう、何の言い訳もせず、事情も話さない。たとえ、正体がバレていても、そうでなくても、貝のように口を噤む。 今更蒸し返して、洗いざらい話す必要なんてない。圭介のような人には、もっといい人が、圭介に見合う人が、すぐに表れるはずだ。そうすれば、祐子のことなどすぐに忘れてしまうだろう。
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