第九章

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『お酒を飲むと具合が悪くなっちゃって』 この話をしたのは、祐子として圭介と出かけていた時だ。祐一郎として、そんな話をしたことはない。祐子としてした話を覚えてくれていて、祐一郎をかばってくれたことに胸が切なく痛む。 研究棟から外に出ると、学内はしんと静まり返っていた。理系キャンパスは実験の関係で夜遅くまで明かりがついている部屋もあるが、クリスマスイヴの今日はそれもまばらだ。 「あの……圭介くん……」 「酔った。家まで送ってくれ」 そう言うと、腕をがっちりホールドされ、まるで連行されるように歩かされる。 「えっ……ちょ……」 こちらの話を聞く気はないようで、酔っ払ったとは思えないしっかりとした足取りで家路を急ぐ。電車に乗ってもなおホールドされたまま、結局圭介の家のマンションまで腕を掴まれていた。一度、車で科学館に出かけた際、目の前までは来たことがある圭介のマンション。エントランスを入り、オートロックの機械に家の鍵を差し込むと、自動ドアが開いた。エレベーターに乗せられ、部屋の前まで連れて行かれる。「入って」と、玄関扉を開けた圭介に言われ、祐一郎は圭介の部屋に足を踏み入れた。 「……お邪魔します」 何がどうしてこうなったのか、わけもわからないまま、祐一郎は圭介の後に続く。男子学生の一人暮らしにしては少し広めの1DKの部屋に、ベッドと作り付けのクローゼット、机にパソコン、テレビや本棚など、飾り気のないシンプルな家具が配置されている。窓際に置かれた天体望遠鏡に、祐一郎の心は和み、ほっこりとした気持ちになった。壁際に置かれた二名掛けのソファーに座るよう促され、祐一郎は端の方に腰掛ける。 「お茶飲む?」と聞かれて、つい「はい」と答えると、圭介はキッチンとダイニングがある部屋へと行ってしまった。酔っ払ったからと言っていたが、おそらくそうではないのだろう。これから何が起こるのか見当がつかず、祐一郎はびくびくしていた。しかし、話をしようと決意してきた祐一郎にとっては、またとないチャンスだ。上着を脱いできちんと畳んでそばに置くと、姿勢を正してソファーに座りなおした。 しばらくして、目の前のローテーブルにはマグカップに入った紅茶が置かれた。圭介を前にすると、視線の先さえどうしたら良いかわからず、ぼんやりと立ち上る湯気を見つめる。早く口を動かして、話始めなくては、と思うのに口が動かない。沈黙の末、先に口を開いたは隣に座った圭介だった。 「強引にごめん……。ずっと、日野と話がしたかったんだけど……、なんて声を掛けていいかわからなくて……」 いつもの爽やかな圭介ではなく、不安そうに揺れる瞳に自信のなさそうな表情。そんな顔をして欲しくなくて、思わず、頬に手を添えようと手が動いた。そんな祐一郎の動きに気付かず、圭介がソファー近くに無造作に置かれたリュックを手に取る。祐一郎は、無意識の自分の行動に驚いて、手を引っ込めた。 「まずは、これ……」 圭介がリュックから取り出してきたものを見て、祐一郎は「あ……」と声が零れた。 「俺とぶつかった時、落としたんだ。返そうと思って、化石鉱物サークルの広瀬さんに日野のこと聞いた。でも、いざ授業で会っても、どうしたらいいかわからなかった。気持ちがぐちゃぐちゃになって……、冷たい態度取って……」 圭介からの言葉に、祐一郎は、驚きの表情で聞いていた。 「そんな時、文キャンで泣いてる日野と会った。実は、事務局から出てくるところから見てたんだ。ずっと、探しててくれたんだな……返すのが遅くなって、ごめん」 差し出された物を、祐一郎は両手で受け取った。手に馴染んだその感触に、何かを言いたいのに、みるみるうちに込み上げてきた涙と嗚咽で、しゃべることができなくなった。祐一郎が一ヶ月以上、必死に探していた星座図の缶。それが今、自分の掌にある。中を開けると、ビニールケースに入ったコンドライトがきちんと収まっていた。 「良かった……っ、あった……」
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