父親

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父親

 「俺、大人になったら先生になりたいんだ。だから、先生のする事覚えたいだけだよ」  赤くなった顔を隠すように顔を背け、付け足すようにそう言った。  照れ隠しと、私に気を使わせないための口実だとわかっていたが、本当に教師になるとは、その時の私も、おそらくは彼自身も、思っていなかっただろう。彼の家は上の学校へ行けるほど裕福ではなかったし、彼の父親は酒癖の悪い男で、酒が入ると妻や子供に暴力を振うことは、学校中の誰もが知っていた。彼は真っ直ぐで利発だったが、父親への不満と、そんな自分を持て余していたのか、高等小学校の生徒とも問題を起こすことが度々あった。  そんな事が父親の耳に入れば、彼が暴力を受けることは必至で、私は彼の家に足を運びよく父親と話をしたものだった。  小柄である私が首を伸ばして見上げるほどの父親は、意外にも酒が入らなければ話のわかる、むしろ人の良い男だった。  自分は弱い人間ですぐ酒に逃げるが、健一郎は違う。あいつは、自分の息子とは思えないほど出来がいいと、胡坐をかいた自分の足を見つめるように俯いていた父親は、顔を上げて私を遠慮がちに見つめると「先生、健一郎をよろしく頼みます」と、大きな図体で、私に深々と頭を下げた。  だが酒癖は治ることはなく、とうとうその年の夏。彼の母親は下の子供たちを連れて家から出て行った。彼は何も言わなかったが、おそらく自分から父親のもとに残ったのだろうと私は思った。  夏休みが終わっても彼は学校へ来なかった。家の手伝いがあるのだろうと思い、学校が終わってから、私は彼の家を訪ねた。  思った通り、忙しそうに動き回る彼を遠目に見ていた私が「立花君」と笑いかけると、ばつが悪そうに、彼は顔を赤らめてぺこりと頭を下げた。  酔い潰れた父親の寝ている横で、私は勉強を見てやった。父親の鼾など聞こえないかのように、彼は勉強に集中していた。教科書に落とした彼の真剣な眼差しを見つめていると、私の耳にも、父親の鼾はいつしか届かなくなっていた。
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