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「あ、もうこんな時間か」
彼女はスっと腕時計に目をやった。赤い革が鮮やかな、随分と文字盤が小さい華奢なデザインだ。
「そんなに数字が小さくて不自由しないか」
「いえ別に?流石に老眼は早いですし」
遠回しに「オジサンみたい」と言われたような気がして少し顔をしかめると、彼女はまた笑った。
「…本当は機能性重視の大きめの文字盤が好きなんですけどね、昔頂いたものをそのまま使ってるんです。私、割と女子力低いので」
知ってる、と思わず返しそうになった。
「……悪かったな、深津さん」
「え?」
「俺は気の利いた話も出来ないから、あまり楽しくなかっただろ」
立ち上がりかけていた彼女はそれを聞いて大きく目を見開いた。
「…へえ」
「…何か?」
「今日のお仕事で、今のが一番の収穫ですね」
俺が聞き返すより先に、タルトの代金をテーブルに置く。
「秋草先生が素直に謝られるとは、思ってもみなかったんです。でも大丈夫、楽しかったですよ」
軽く会釈して、彼女は颯爽と去っていく。
「…」
多少は自分も大人になっている、とは思う。以前より多くの人と関わったし、社会の仕組みも何となく理解出来ている。それでも、彼女の今の言葉は少し衝撃的過ぎる。
ぬるくなった紅茶を前に、俺は呟いていた。
「…俺は、彼女に謝ったことがなかったのか…?」
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