ノンブルゲーム

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ノンブルゲーム

「お帰りなさい、出張お疲れさま。夕飯もうすぐできるからね」  マンションの一室。スーツ姿の男性が「ただいま」と言って扉を開けると、「料理中」を絵に描いたかのようなエプロン姿の女性が、忙しそうな足音を立てて迎えに来る。女性は男性からビジネスバッグを受け取ると、そのオープンポケットに入っていた見慣れない文庫本に気付き、「おや」と眉を寄せて思わず手に取った。出かけたときには入っていなかったものだ。そして出張中に買ったにしては、古本のような経年劣化が見受けられる。 「この本、どうしたの?」女性が訊ねると、男性はスリッパを履くために下ろしていた視線を上げ、「ああ、それね。行きの新幹線で……」と、思い出すようにして話し始める。          §  地元の土産物というのは一種の死角のようなもので、その性質上、地元の人間がそれを自分のために買うことは少ない。しかしその男性に限っていえば、新木乃(しんきの)駅から新幹線で出張する際、どこへ行くにも銘菓「三種のごまプリン」を購入してから車内へ乗り込む。最も安価な三個入りを、自分用に。  税込みで千円札が必要となるその内容はというと、コロンブスもびっくり、直立する卵形の(一応、ごまの形ということのようだが)容器の中に、黒ごま・白ごま・金ごまを使用したプリンが一つずつ入っている。  男性はこの三種のごまプリンを、行きの新幹線の中で順番に食する。発車と共に最もスタンダードな黒ごまプリンに手をつけ、残りの二つは、目的地までに経由する駅を三等分するそれぞれのポイントで、白ごま、金ごまの順に食べ始める。それが彼の出張における唯一の楽しみだったし、ゲン担ぎでもあった。以前きまぐれにそのプリンを買い、車内で食べながら出張先へ向かったところ、大口の契約を結ぶことができたのだ。  さて、その日も男性は指定席券を手に見慣れた三列シートの前までやってくると、鞄を荷物棚へと上げ、窓側の席に座って背面テーブルを展開、件のごまプリン三種を石碑のように並べた。  とそこへ、同じく指定席券を持った幼い姉弟がやってくる。姉は小学校高学年か中学に入ったばかりというところ、弟は小学校中学年といったところだろうか。もちろん姉弟ではない可能性もあるのだが、そういったことを考え始めるときりがないので姉弟ということにしておく。  姉弟は券に記載された席番号を確かめると、姉が男性の隣に、弟が通路側の席にそれぞれ座る。弟は落ち着きなく脚をばたつかせたり、背面テーブルを無意味に開閉させて前席の中年女性を振り返らせたりしていた。  ――やれやれ、保護者はいないのか。困ったな。  困ったというのは他でもない、その弟とおぼしき少年が、男性の背面テーブルに置かれたごまプリンを見て、あからさまに「このおじさん、三つも食べるのかな。一つくらいくれないかな」という顔をしているのだ。  男性が和紙のような凹凸のあるパッケージから付属のプラスチックスプーンを手に取り、ビニールの包みで三連結されたうちの一つをキリトリ線通りに引き離すと、少年の瞳にはいっそうの輝きが生まれた。「ほら、スプーンだってちゃんと三つあるんだ! おじさんが一人で全部食べるなら、スプーンは一つしかいらないはずなのに!」……そんな希望に満ちた空気が少年の周囲に漂っている。でも男性だってなにも特別に「スプーンは三つ入れておいてください」と売り子に頼んだわけではないのだ。  これはもういつ声をかけられてもおかしくないぞ、と察知してはいたものの、今さら後で食べる二つのプリンをどこかにしまい込むというのもあからさまだし、かといって気前よく少年にごまプリンを与えるにしたって、そうなれば当然、残りの一つも姉らしき少女に差し出すのが道理だろう。となれば、男性に割り当てられたごまプリンは、たったの一つということになってしまう。  第一、この場合誰にどの種類を割り当てるのが適当なところなのか? とりわけ、自分は三種のごまプリンのうちどれを死守すべきなのか? それが問題だ。  男性は常々、この三種のごまプリンを食べるときは、先ほど挙げた順番通りに食べてきた。しかし三種のうち一つを選ぶとすれば、いったいどのごまプリンを選べばいいのか、見当がつかないのだ。三種のごまプリンは三種であるからこそ三種のごまプリンなのであって、バラ売りはしていない。三、六、九個入りの三形態があるだけだ。ときおり「いちごまプリン」などといった期間限定の種類を加えて偶数個で売り出すこともあるが、ともかく一揃えのセット販売なのだ。だから男性はこれまで一度も、三種のうちどれを選ぶべきかという順位付けをする必要はなかった。  ――ここはやはり黒ごまか? 少なくとも白ごまはないな。黒か、金か? いや、子供だっておそらく黒か金を欲しがるだろう。白ごまの控えめな風味の良さは大人にしか分からない。となれば私が白ごまを確保して……いや、そもそもなぜ見ず知らずの子供に三つのうち二つものごまプリンを与えねばならないのだ? だいたい、姉弟からしたって私は見ず知らずのおじさんではないか。今時の子供たちは知らないおじさんから食べ物を受け取ったりはしない。そうだ、とにかく私からすすんで与えてやることはない。  ……そう男性は考えを巡らせたのだけれど、弟らしき少年の目は、相変わらず三種のごまプリンに釘付けだ。そこで姉らしき少女は男性に気を遣い、弟の興味をごまプリンから逸らさねばと考えたのか、「あーくん、ノンブルゲームしよう」と提案した。  ノンブル、という聞き慣れない言葉に世代差を感じる。子供の遊びは今や携帯ゲーム機に集約されたようなところがあり、ノンブルというのもゲームソフトの一つだろうと男性は踏んだのだが、そこで少女が小さめのトートバッグからブックカバー付きの文庫本を取り出したところをみると、それはどうやら古き良きアナログな遊びのようだった。 「でも、審判がいないよ」少年の指摘に、姉らしき少女は「あ、そうね」と言ってちらりと男性を見やる。そんなことをされてしまっては協力しないわけにはいかない。少年も「おじさん、審判やってよ!」と率直なアプローチを見せる。男性にはこれから三種のごまプリンを順番に食するという大切な儀式が控えているわけなのだが、まあ肝心のそのプリンを姉弟に与えなければならない展開になることを思えば、子供の遊びの審判を引き受けることなど、至極些細なことだった。 「審判って、なにをすればいいのかな?」 「ぼくたちが交互に数字を言っていくから、おじさんはその数字のページにマークをつけていって! すでにマークがついてる数字を言った人が負けだからね!」  少年がそう教え、少女が件の文庫本を男性に手渡す。「なにか書くもの……」というようにトートバッグを探る少女を、男性は「いや、結構」と言ってスーツの胸ポケットからペンを手にする。 「じゃあまずは最初から50ページまでね、50・49・48!」  少年が元気に数字をコールする。 「50・49・48ね……」男性は呟きながら、文庫本の下部に振られたページ番号を丸で囲んでいく。そう、ノンブルというのはページ番号のことなのだ。  次いで「23」と少女が言う。「23だけ?」男性が確認すると、少女は「はい。一度に三つまでの、連続した数字を言うことができます。なので、一つでも、二つでもいいんです。パスはダメですけど」と説明する。「ふぅむ」と男性は唸る。  ――一度に三つまでの連続した数字を言うことができる。それを交互に繰り返していって、すでに言った番号を口にしてしまったほうが負けというわけか。要するに記憶ゲームというわけだ。子供のやりそうな遊びだな。  男性は最初そのように、このゲームを侮っていた。 「47・46・45!」と少年。 「39」と少女。 「44・43・42!」と少年。 「21」と少女。  姉弟は以降も交互に数字をコールする。弟らしき少年は元気に、姉らしき少女は凛とした声で。  さて。少年はカウントダウン戦略をとり、少女が罠を張っているという構図だ。しかし少女は自分が言った番号をちゃんと覚えているのだろうか? 「41・40!」  少女が張った最初の罠を、少年は得意げに回避する。しかし攻めなければ勝てないのではないか? 男性は考える。もっとも、少女が自分で張った罠に自らはまってしまう可能性もあるのだけれど。 「16」 「38・37・36!」 「17」 「……22!」  おっと、少年のほうも攻めに出たか。カウントダウンをうっちゃって、二十番台を埋めにきた。それとも少女が先に埋めた「21」と「23」の存在を忘れないうちに、ということだろうか。 「18」 「24・25!」 「19」 「26・27・28!」 「29」  これで二十番台はすべて埋まった……いや、「20」がまだ残っている。  男性はページをめくり、そこにまだ丸が打たれていないのを確認した。ついでにもう一つ、気になっていたことを姉弟に訊ねる。 「もしかして、ノンブルが振られていない番号を言っても、負けなのかい?」 「はい。最初のほうとか」 「なるほど」  男性が渡された文庫本では、ノンブルは10ページ目から振られている。本文がそのページから始まるのだ。9ページ目までは目次や登場人物の一覧などで、ノンブルが振られていない。だから姉弟は一桁の若い数字を忌避してコールしていたのだ。おそらく終盤、本当にコールする番号がなくなったときに、はじめて十番台をカウントダウンしていくのだろう。 「30・31・32!」 「33」 「えーと……34!」 「35」 「ちょっと待ってね……思い出すから……」  ここにきて少年が長考に入る。なにもそこまで考え込まなくてもいいだろうにという大げさな頭の抱え方をする。そんな少年の様子を、少女は微笑ましげに見つめている。どうやら彼女の勝ちみたいだな、と男性は決着を予感する。 「……15!」 「14」 「20!」 「……13」  ――やれやれ。二人とも一筋縄ではいかないな。  少年もしっかり「20」のことを覚えていたのだ。これで「13」以上はすべて埋まった。あとは砂場での山崩しゲームのように、慎重に一つずつ番号をコールしていくしかない。 「12!」 「11」 「10!」  決着だ。文庫本の持ち主である少女も、少年と同じく、ノンブルが10ページ目から振られていることを知らないのだろう。それにしても意外だな、まさか少年のほうが勝つとは……男性がそう思っていると、少女はしばらく考えた後、 「フィニッシュ」  と言った。 「フィニッシュ?」男性が訊ねると、少女は「はい」と言って最後のルールを説明した。 「自分の番がきて、もうすべてのノンブルにマークがつけられたと思ったら、『フィニッシュ』って言うんです。それで、実際にその通りだったら勝ち、まだマークがつけられていないノンブルがあれば、負けです」 「なるほど」  単純に、「最後のノンブルにマークをつけた者が勝ち」というわけではないのだ。相手が『フィニッシュ』に成功すれば、相手の勝ちとなってしまう。だから理想は、相手に最後のノンブルをコールさせ、自分が『フィニッシュ』することだ。しかしそうするには、記憶と、計算と、そしてなにより「もうすべての番号がコールされたのだ」という自信が必要とされる。 「きみの言う通り、もう50ページまでの全てのノンブルにマークがついているよ」  男性が姉弟にそう告げると、少年は「くそー、負けたー!」と言ってくやしがった。しかしそのくやしがり方は、どこか楽しんでいるふうでもあった。今回はノンブルの振られ始めの番号が未知であったぶん、運の要素が大きく作用した。確かに少年は負けたかもしれないが、その戦いぶりは少女にまったく劣っていない。 「お姉さんの勝ちだね」  男性は一息ついて文庫本とペンをテーブルに置き、そろそろいい加減ごまプリンを食べなきゃなとそれに手を伸ばしたところで、早くも気を取り直した少年の言葉を聞き、ぴたりと手を止める。 「ルールは分かった? じゃあおじさん、そのごまプリンを賭けて、ぼくたちと勝負しよう!」          § 「それは災難だったわね。……で、その遊びに使った本を、あなたが間違って持って帰ってきてしまったのね?」  温かみのあるオレンジ色の照明に包まれたダイニング。テーブルの上に用意された一汁三菜に、主食となる炊き込みご飯を盛りつけた茶碗が加わる。女性が電気ケトルから急須へ湯を注ぎ、時間を置く代わりに軽く急須を揺らして、早く茶葉の成分が抽出されるようまじないをかける。  男性は水切りラックから二人分の湯飲みを手に取り、テーブルへと置いた。  そして、苦笑気味に言う。 「いや、私が二勝したから、謹んで頂戴したのさ」
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