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「吹いてみてよ、聴きたいな。」
俺は頷く。
藤吉先輩は、音出しもしてねーんだから、B♭ちょうだいと言う。
俺は言われるがまま、B♭を吹く。
今まで何百回も出してきた音なのに、なんでこんなに緊張するんだろう。
「真っ直ぐな良い音だね。」
早水先輩はそっと呟く。
「いーねー!竹を割ったような、真っ直ぐな音。」
藤吉先輩は、いーねー、いーねー、と言い続けてくれる。
「良いB♭を一発、ありがとう!と、言うことで、お礼に京弥から一曲プレゼントです。」
「え?僕からですか?」
「だって、おれ、音出ししてないから。なんか、テキトーにさ。あ、南條君、イギリスから来たみたいだから、グリーンスリーブス吹いてあげなよ。」
早水先輩は、少し困った顔をしつつ、楽譜のファイルをめくる。
その隣で、藤吉先輩はチューナーをセットして、音出しをしている。
聴き慣れたイングランド民謡が、やわらかいアルトサックスの音で奏でられる。
藤吉先輩が、音低いな…とか呟いたり、若干リードミスをしていたが、俺はどんどん、早水先輩の音に呑まれていく。
身体がやわらかいものに包まれていくような感じがする。
ー心が満たされていく。
この人の音はあたたかいな…いつまでと聴いていたいと思ってしまう。
桜が風に吹かれて、はらはらと花びらを散らす。
桜吹雪を背にしてサックスを演奏する早水先輩。
やわらかなアルトサックスの音が俺の耳に記憶され、俺の中の深いところに囁きかける。
俺はこの時、この世で一番美しいものに出逢ったのではないかと錯覚を起こした。
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