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「お客に対して失礼なやつだな。オレはお前の技術を信用してんのに。」
「なんか、すんません。」
「ま、いーって。冗談だって、気にすんな。でさ、本題に入るな。オーバーホールして欲しいアルトサックスがあって持ってきた。」
「急ぎます?」
「そんなには。」
川上裕紀は大事そうに、カウンターへオレンジ色のアルトサックスの入った楽器ケースを置いた。
「これって…」
心拍数が上がる。顔が熱くなる。
「そ、京弥のアルトサックス。」
「京弥さん…」
俺がずっと好きでいる人。
おっとりと話すアンタが好き。
人見知りだけど、優しいアンタが好き。
高校生の時の吹奏楽部の先輩…今も、俺はただの後輩を演じている。
今まで、愛してるを言えないで、ずっと想いは燻っている。
「なんで、オーバーホール?今、あの人、医者やってて仕事忙しいんじゃないんすか?…楽器触ってんの?」
「今はあんまり触ってないみたいだ。だけど、市民の吹奏楽団に入ろうとしてる。」
「…そうなんだ…」
「やっぱり、アルトサックス、好きなんだって。また、やりたいんだってさ。そりゃ、そうだよな。このアルトサックス…京弥が小さい頃からずっと一緒に頑張って来た相棒だぜ?」
ケースに触れると、京弥さんが大切そうにこのアルトサックスを組み立てている姿が思い浮かんだ。
「つーか、なんで、ロンドンまで持ってきたんです?」
「この前、京弥に会った時、サックスにずっと触ってないからオーバーホールしたいって言っててさ。だから、オレがいつも世話になってる腕のいいリペアマンがいるって言ったら、お願いしたいって言われてさ。」
川上裕紀は俺の瞳を真っ直ぐ見て、こう言った。
「だから、お前のところへ持ってきた。」
愛しい人の相棒を託された。
ケースを開けると、いつも京弥さんと 一緒にいたアルトサックスが静かに眠っている。
ずっと大切にされてきたのだと一目でわかる。
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