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こんなことを覚えている。俯いたら髪の間から見える赤いピアス。金魚のモチーフで、少し不細工な。出目金って言うんだっかな。「可愛いでしょ」と彼女は 髪を耳にかけながら言った。何故か得意そうで、僕には理解できなかった。
あとは口癖。「つまんない」。部屋でだらだらして、やることやって、なにもすることがなくなったら、彼女は呟く。そのくせ、特に提案はしない。こちらの話はきかない。ただ黙って勝手に僕のタバコを吸う。楽しそうですらある。僕は理解できなかった。
あとは、香り。僕のよく知らない花の匂いがした。あれは香水だったのかハンドクリームだったのか、確かめなかったけど。凛として、寄せる波のような。どういうわけか、お風呂上がりも、デートの後でも、そうだった。僕は理解できなかった。
あとは髪の毛。お風呂上がりに、ストレートの髪が乾かしたらウェーブする。毛先がくるんとなって、てんでんばらばらの方向を向いていて、彼女の性格そのものを表しているみたいだった。堅い髪質で、指でかき回すと、すぐ団子みたいになる。僕はそれが好きだった。彼女は毎朝アイロンを当てていた。僕は、それが理解できなかった。 あとは、指一本入りそうなくらい口が開いた寝顔、霧吹きをしていた窓際のサボテン、仕事帰りに疲れはてて玄関で突っ伏してる姿、ビールを一気に飲み干すところ、手を繋いだ夜の帰り道。
あとは……。どれだけでも思い出せる。心臓の鼓動も、踵の質感まで、何もかも手に取るように。
不思議な動物のような、彼女と暮らした部屋を出ていこうと思う。突然僕の日常に入り込んできて、いつの間にか消えた。猫みたいなあの人は、もう帰ってこないのだ。服も歯ブラシも匂いも、何もかも置いていったから、部屋と心を整理している間に、季節が一巡してしまった。
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