芭蕉紀行漂泊の憧憬  2

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4、伊賀上野時代  明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去。 兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためであろうか、 異説も多いが寛文2年(1662年)に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役か料理人だったらしい。  2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り、寛文2年の年末に詠んだ句 春や来し年や行けん小晦日  (はるやこし としやゆきけん こつごもり) が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだという。寛文4年(1664)には松江重頼撰『佐夜中山集』に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した。  寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている。
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