第四章 Halte die Fahne hoch!(2)

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聖王暦一八二〇年五月五日深夜二時。 ヴェルディア帝国皇都ヴィンターガルテン皇宮郭内『聖王ゲオルク大神殿』に設けられた総統府の窓は未だ爛々たる金色の燭光を宿していた。 『第三次反帝同盟』諸国との開戦により帝国の政柄を掌握するバッハオーフェン総統の職務は多忙の極みにあったのである。 宮廷神祇官長として朝な夕なの宮中祭儀を執行し、帝国宰相として内閣諸卿を統括し政務を差配し、帝国大元帥として将軍連の諮問に基づき統帥にあたる帝国総統の一日はほぼ分刻みの日程に拘束され、位人臣を極めながらバッハオーフェンの生活は栄耀栄華から遠く懸け離れた修道神官の如くに潔白かつ過酷なものであった。 総統府の実務を担う腹心の神官団及び『改新派』官僚、親衛軍将校から構成される総統府吏僚らもまた昼夜を別たず運び込まれる書類の山脈との格闘と院庁ならびに諸省庁との連絡調整に不眠不休で飛び回る事を強いられている。 無論斯くした繁忙は総統府のみならずバッハオーフェン総統の同盟者たる帝国官界の巨頭ベルリヒンゲン侯率いる内務省をはじめとする全官庁も同様に瀕するところであったから、皇宮一円は滔々たる夜闇の只中にさながら天上の銀河を圧する如く燦然と煌めき渡っていた。 今夜も未だ帝国総統フィンセント・バッハオーフェンは床に就く事能わず広壮たる執務室で前線からの報告書に目を通し翌日の院庁での報告の準備に備えている。 本来神官にして軍人に非ざるバッハオーフェンは軍事に通暁している訳ではない。 幕下に招いた親衛軍高官や友好関係にある軍高官の輔弼あって漸く大元帥の責務を全うしうるのである。 それ故にこそ、日々勉学が欠かせない。 天が己に命じた務めを為し遂げる為には。 されど、前宮廷神祇官長ブリュッヒャー師の庇護を受けた幼少の砌より万巻の神学書や儀典義解の類を読破してきた彼にとって勉学は決して苦行ではなかったのである。 如何なる地位にあろうとも、バッハオーフェンから清貧の神官の風情が拭い去れぬのは身に染み付いた生活態度が神官のそれに他ならなかった所為であろう。
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