第四章 Halte die Fahne hoch!(2)

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フィンセント・バッハオーフェンは帝国総統としての執務を住み慣れた己が居城で執り行うべく『聖王ゲオルク大神殿』に総統府を設け、信頼する配下の神官どもを吏僚集団として編制した。 もとより筆算の道に通じ学識豊かな神官達は凡庸な高等文官より余程実務に長け、能吏として遺憾無く総統府の切り盛りに貢献してくれたのであった。 深更の総統府を駆け回る慌ただしい衣擦れはバッハオーフェン子飼いの神官らの、徒らに高く響き渡る耳障りな靴音は親衛軍将校らのそれと容易く知る事が出来た。 「総統閣下、ヴィルヘルム・フォン・ルフト親衛軍中将閣下より火急の報告。 国衆『ホーエンローエ軍管区』暴発。賊将ギルベルト・ヴォルフラム・フォン・ローゼンベルクは将領を号しグナイスト男爵閣下を奉じて州都オルデンブルクへ進発の由に御座います」 打扉(ノック)と同時に荒々しく扉を開いて執務室に駆け込んできた男が絹冠に黒衣姿の神官であることを、総統バッハオーフェンは靴音のみで既に認識していた。 「慌てん坊は未だ治らないね、カウフマン権禰宜(アウサーツェーリッヒ・ベフリーデンプリーステル)。 報告御苦労様。少し休んでいきたまえ。香草茶を淹れよう」 漸く読みさしの書類から眼差しを総統府附神官-カウフマン権禰宜へと転じたバッハオーフェンは燭に照らされた秀麗な面を柔かに綻ばせ、くすくすと優雅な笑い声を溢す。 不眠不休の激務を強いられながら、彼の美貌は疲労の翳りを留めず隈一つ見受けられない。豊かな白金色の長髪は闇の中にも艶やかに光輝を湛えている。 「閣下。神祇官長様!か、火急の報告です!国衆(ランクツネヒト)反乱!」 茫然と上官の神々しいばかりの美貌に眼を奪われていた中年の下級神官は我に返って報告を繰り返す。驚天動地の報告を受けながら、気を留めた素振りすら見せないバッハオーフェンの正気に一抹の不安を抱いた為である。 「ああ、分かっているよ。 ルフト中将は焦って虎の緒を踏んだ。ヴィッテンベルクのブラウンシュヴァイク少将に命令を送ろう。何とか明日には伝達したいものだ。軍用鳩通信は万全だね?」 歴代神祇官長が愛用してきた年代物の桃果心木の机を離れ、七宝の給茶器の側へと歩を進めんとしたバッハオーフェンは困惑する権禰宜を顧みて手短に応える。 陶器の碗に香草茶を注ぐ手を止める事もなく、さながら空模様を論ずるが如き声音で帝国の執政はいとも優雅に兵事を語ってみせたのである。 「はい。ヴィッテンベルクまでの伝達網は万全です。ですがブラウンシュヴァイク少将は、まだ決起貴族との対陣中では」 総統の手許で湯気が深更の闇に融け、執務室に華やかな香気が満ちる。 しかし、カウフマン権禰宜の鼻腔がその馥郁たる芳香を堪能する事は能わなかった。 「直ぐに決着をつけさせよう。王法に叛く逆賊を神々も赦しはしないだろう。老若男女の別なく悉く誅する。殲滅だ。慈悲は要らない。 砲声を以てルフト中将への弔鐘(、、)と為す」 一片の憤怒も憎悪も交えず至って涼やかに下された虐殺の命令を前に、中年神官の全身は一瞬にして凍り付いてしまったのである。 「さて、先ずは一服だ。聖牛草は桜の花の匂いがするだろう?これは眼病予防に効くのだよ」 恐怖の余り舌が縺れたカウフマン権禰宜は総統の心尽くしの労いに礼を述べる事すら叶わなかった。
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