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聖王暦一八二〇年五月六日、午前五時十三分。
暁闇は刻一刻と淡く白みゆき、東の湿地帯の彼方の地平線は朝焼けの予感を孕んで薔薇色と金色を滲ませていた。
彼方此方に揺らめく営火が天幕近辺に犇めく軍兵の影を浮かび上がらせる。
鶏鳴を圧して嚠喨と鳴り響く喇叭が無慈悲に夢を破り、兵達を死神どもの舞踏会へと追い立てた。或いは生涯最後とも知れぬ安らかな朝寝が許される事もなく、両軍ともに慌ただしく支度に取り掛かる。
馬の嘶き、馬具の金音、土を踏みしめる軍靴の音、爆ぜる薪の音。
汗と馬糞の臭い、兵食の麺麭と羹汁の香気、四方に立ち籠む煙の刺激。怒鳴り声。
聴覚にも嗅覚にも徴き戦場の気配を肌で味わいつつ、ザビーネ・マリアは司令部シュミッヒ邸の露台より隘路に連なる敵軍の営火を眺めて朝食の固茹玉子に舌鼓を打っていた。
シュミッヒ村長ご自慢の地鶏は格別に肉質に優れているが、卵もまた風味豊かにして濃厚な黄身が絶妙である。
姫君にしては礼式を逸した振舞いだが、隙なく竜騎兵装束を着こなし露台に寄り掛かる姿は青年将校めいて中々に乙な風情であった。
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