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「夕方までには戻るよ」
苦笑いでそそくさと荷をまとめようとすると、シャツのすそをぐいっと引っ張られた。伸びる。
「何だよ、いつも生ぬるい顔で見送るくせに」
「今日は待って。せめてお昼の部を終わらせてからにして」
お昼の部、という言葉で彼女が訪問してきた理由を察知した。仕事の話だ。
「俺、今日は非番だよ?」
「ルビィが楽器を壊しちゃって。代用品を借りに行ってるけど、間に合わないから昼は代打お願い。その後は湖に行ってもいいから。ね?」
「そんなのはギンに……あー、いや、うん、わかった」
すでにここにいないヒトの名を口にしてしまい、少しだけ気まずい顔でアオはうなずいた。これはどうも、行かざるを得ない状況のようだ。
「どうせ、ヒスイ姉さんにサンドイッチでも作ってもらおうと思っていたし」
「じゃあ、決まりね!」
サンゴがピンクの髪を揺らしながら部屋を出て、パタパタと足音を立てて階段を駆け下りていく。窓から覗くと、足の速い彼女はもう玄関から飛び出していて、急かすように手招きをした。
そしてそのまま丘の細道を下っていく。
丘の上のアパート『さしすせ荘』に、アオもサンゴも住んでいる。少し前まではギンも住んでいたし、仕事仲間のルビィや、彼女の相棒のシオン、そしてヒスイだって住んでいる。この適当きわまりない名前のアパートはいわば社員寮だ。
そしてその職場はと言うと――。
「あ、アオ。悪いわね。ルビィには今度ご飯おごらせるわ」
十席ほどの小さなレストラン。
カウンターでからからと音を立てながら氷入りのサイダーを出す女性が、アオとサンゴを雇っているこの店のオーナー、ヒスイだ。
その名の通りうっすらと青みがかっている透き通った翠色の髪が自慢の美人。
美人、といっても、機能性重視のヒト以外は大抵それなりに整った容姿をしているのだが。何せ顔だってオーダーメイドが可能な世の中だ。
アオのようにほとんどデフォルトから手を入れていない顔だちでも、それなりに造形は整っている。
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