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「ほら、まずは課題だろ。自分でやってみて、分かんないとこあったら、見せて」
「うん」
それからはものの数秒で、設問に没頭してしまう。どうせ全問正解で、俺は答え合わせでマルをつけるだけだ。
手持ち無沙汰で、部屋を眺める。だだっ広いフローリングの室内には、必要最小限の家具しかない。窓際にベッド。窓と反対側に、部屋の入り口とウォークインクロゼット。入って右側の壁一面は戸棚になっていて、中にぎっしり、永久の大好きなレゴが詰まっている。俺と永久の定位置はその向かい、左側の白い壁の前だ。味気ないほど何もない部屋は庭に向いていて、外の音もほとんど聞こえない。
椅子に長く座っていられない永久は、勉強もレゴも床でする。座っていればまだいいほうで、気分によっては寝転がったり、四つん這いになったりする。最初の頃はびっくりしたけど、もう慣れた。偏差値75が保たれてる以上、俺の立場では何も言うことがない。それにどんな姿勢で何をやっていても、永久ならいいのだ。それが許される環境に永久はいるし、俺は全面的に永久に弱い。それは初対面から決まっていて、多分一生、このままだ。
永久との強烈な初対面を、俺はしょっちゅう思い出す。
去年の九月の終わり頃。場所は広尾の老舗テーラーで、永久はオーダースーツの仮縫いに来ていた。このテーラーが俺の親父で、古い友人である永久の父親から、相談があった。息子の家庭教師を探している。東大生で、できれば知り合い関係に頼みたい、と。
「高一でオーダースーツとか、なにもんなの。その子」
「高校の制服だよ。既製品が肌に合わないからって、同じ色とデザインで作るんだ。まぁ親が着道楽で、桁違いの金持ちなんだけどな。だから時給も悪くないみたいだぞ」
提示された額は実際、家庭教師派遣センターの相場の三倍あった。俺は親父の交友関係をまったく知らず、そこに「桁違いの金持ち」がいることも当然、初耳だった。仲は悪くないとはいえ、六歳から別居していると、親との距離はこういうところに出る。
「確かに相場よりずっといいけどさ。そのぶん面倒なケースなんじゃないの。留年ギリギリの、ものすごいおバカさんとか」
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