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しばらく黙っていると、雅紀がこちらへ来て、僕の脱いだ手袋を拾い上げる。
昨日、生協で買った、分厚い合皮のグローブみたいな手袋だ。
「いいじゃん、変わってて」
すぽっと、大きいそれをはめて、鍋の蓋を開けた。
鍋つかみが欲しかったらしい。
「頑張ってみれば?」
もうもうと立ち上る湯気の向こうでそう言われ、僕は急激な恥ずかしさを覚えた。
自分のことを評価されると、すぐに苛立つ。
雅紀にそんなつもりがないって、頭ではわかるのだけど。
「がが、頑張ってって、簡単じゃないし」
「頑張ることくらい、簡単なことないじゃん?」
「は?」
「だって、頑張ればいいんでしょ? 頑張るだけで何かできるなら、そんなの超簡単じゃん」
何を言ってんだ。
「頑張れないならさっさとやめて、頑張れることやったらいいよ」
さすが変人。
きっと小さいころから頭よくて、ひょいひょいと進学したんじゃないだろうか。
そのうえ、運動も得意で、努力してもできない、なんてこと経験したことないんだろうな。
まあ、料理の腕はいまいちだけど。
「で、でも、郵便配達って……誰にでもできるし」
「誰にもできない仕事なんて、そうそう無いでしょ。宇宙飛行士にでもなりたいわけ」
「ちちち違うけど」
ぽーい、っと手袋がこっちに飛んでくる。反射的に両手で受け止める。
「ナイスキャッチ。いいじゃん、郵便屋さん。みんな知ってる仕事だし。レンジャーはめんどくさいんだよ、いちいち仕事内容説明するのが。『どんな仕事?』ってみんな聞くでしょ。そのあと絶対、『給料いくら?』って聞かれるんだよ。てめーの給料から先に言えっつーの。余裕で暮らせるくらいですって答えるの、そしたら絶対、『公務員?』って聞くんだよね。どういう意味かわかる?野鳥の調査なんて大した仕事じゃないと思ってるんだよ。そんな仕事でお金もらえていいねって思ってるんだよ。ああああああ、ムカつく!」
どん、と粥の入ったどんぶりをテーブルに置き、ワインを取りにキッチンに戻る。
「職業に貴賤なしっ! 前進あるのみっ!」
大見得を切る彼女の頭上に、浮かんでいるものを、僕ははっきりと目にした。
ポジティブ。
ポジティブって、目に見えるらしい。
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