1人が本棚に入れています
本棚に追加
春川櫻彦はマンションの自室を引き払い、そうして駅から列車に乗ると、彼にとってはどうも嫌らしく感じるこの都会を後にした。櫻彦は列車に乗り込んだ後は一度たりとも、この街の風景の方を振り向くことはなかった。
幾数年を暮らした街だが、この街は櫻彦を櫻彦として過ごすことを認めなかったコンクリイト・ジャングルだった。彼はその中でただ感情もなく、ただ虚しく、自室と会社を往復するだけの味気無い単調な生活を送っていた。仕事に満足することもなく、この街にも満足することはなかった。これがコンクリイト・ジャングルなのである。
コンクリイト・ジャングルはどこへ行こうと油の臭いがする。ひどく嫌な臭いだ。この街に住む人々が会社に出勤して仕事をする時に滲み出る機械油のあの臭いだ。ただ仕え、いや、ただ使われる人々は歯車のようで、それが動きを見せる度に機械油が染みてくる。機械油は臭いだけに留まらず、この街の景色も、そしてこの街の空も油汚点が浮いている。ああ、酷く汚染されている。
人々の中には、この油にまみれたこの環境で生きることに充実を感じている者もいるが、人間らしい精神からそれを主張する真人間は少なく、結局は歯車のようにただ動かされているだけなのに、それが人間だの社会だのと主張するだけの言いなり人間だったり、酷いものでは、空の権力を理屈もなく主張して、皇帝か神か仏かになったつもりで横暴を繰り返すものもいる。人として間違っていようが、それが多数派だから、コンクリイト・ジャングルはそんな人間の巣窟なのである。
春川櫻彦には、そんな油汚れの街は合わなかった。彼の名前は“春”の“川”の“櫻”の彦。春の川の櫻が油で汚染されたら、それこそ想像を絶する程に傷付きボロボロになるだろう。しかしそれ以前に彼は良い意味合いでも悪い意味合いでも、妖精のように純真無垢な人間だった。すっかり傷付きボロボロになってしまった彼にとっては、この街に何の思い入れもないどころか、もう二度と見たくもない光景だった。
発車時刻が来て列車が動き出すと、かなり僅かばかりだが櫻彦の口が弛んだ。ほんの少しだけ、彼の本来の感情が蘇ったのかもしれない。ほんの少しではあるが、紛れもない幸福のようだった。
最初のコメントを投稿しよう!