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言葉を選び間違えた。そう気付いてバツが悪くなって唇を結んでもう1度開こうとしたとき、晴人の口の方が先に閉じて、開いた。
「なんだ。俺はフラれたのか?」
虚を突かれた物言いに、もう一度口を閉じて息を飲んだ。
「それは、」
ないです。
言いかけた言葉が空中分解して腹の中に墜ちて行った。
フッたとかフラれたとかじゃない。
落とした目線の先、うどん汁に自分が写る。口に咥えた箸が行儀悪い。
「好きです。」
それは、間違いない。
最初は憧れだった。こんな男になりたいと思った。仕事に厳しく、叱られることも多かった。だが、その何倍も教えられ、導かれ可愛がられた。知る由もない兄と言う存在があったなら、それは、晴人のようなものだろうかと無意識に想うほどに。だから、その背中を失ったとき、追いかけたのだ。追いかけて、見つけて弱りきった姿を見て、
安堵した。
これなら、遠くへはいけないと。もう、置いていかれることはないと。そして、あの夜。本当は怯えながら、何故と問いながら、離れるなと命じられたことに拠り所を見いだしていた。あれだけの仕打ちを受け、脅されたから傍に居るのだと、大義を得た気持ちがあったのかもしれない。或いは、あれだけの仕打ちを受けたのだから、傍にいることくらい許してほしいと思っていたのかも知れない。
息を吸って吐き出して俯けた顔のままでうどんを見ていた。
「好きだけど、ダメなんです。」
「何が?」
「お互い向き合ったら、背を向けるとき、辛いでしょう?」
ポツリと呟いた拍子に、うどん汁にぽたりと滴が落ちた。顔を上げないでティッシュを取る。自分の女々しさに辟易する。
「背を向ける」
「お互いが、足枷になったとき」
「足枷」
語彙の少ない子どものように、晴人は繰り返す。繰り返して、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「俺は。」
薄い唇が躊躇って閉じられるのを上目に見た。晴人はわざと視線をはずし、箸をおいた。
「お前を抱き締めて離したくないし、足枷でもなんでもつけて、ここに縛り付けておきたい」
神妙な顔で至極真面目にはっきりと唇が語る。
目眩がした。 くらくらと、目の前が揺れるようだった。晴人によって身動きすらままならないように縛り上げられた自分が、その腕に抱かれているのを想像した。
「それは、」
物理的な意味なのか、比喩的なものなのか、判らなくて次の言葉を探す。晴人は何でもないようにうどんをすすり、汁まですっかり飲み込んで口許に残った水分を手の甲で拭った。
「そのままの意味だ。お前が、俺を好きだと言うなら、もう遠慮はしない。ごちそうさま。」
箸を置いて手を合わせて呟くと鋭い目がこちらを見た。
「俺は、お前が好きだ。口にした以上、もう今さら誤魔化しも取り消しも出来ないだろう。事実なのだから、露見すれば下手に隠し立てしたり誤魔化したりする方が不自然だ。」
「でも、俺は、」
「俺を好きなことは事実なんだろう?」
真っ直ぐに背筋を伸ばし真っ直ぐに見つめながら、その目には縋るような色がある。
不安がさんざめいている。
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