抱かれ、たい。

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 反射的にそれから逃げようとして腕を引いた。晴人の下唇がきゅっと丸まって皺を寄せる。 「飯、もういいか。」  手が離れる。熱が引く。晴人は眉尻を下げた困り顔のまま、一史を見つめた。何かの苦痛に耐えるような顔だった。  黙ったまま首肯する。その手が、丼のふたつを持って台所に消える。漸く、長く息を吐き出せた。曖昧で半端なこの状況は、一史の言葉は、どのように晴人に届いたのだろう。それが判らないままで、じっと、座卓の前に座っていた。  煮え切らない態度に、付き合っていられないと切り捨てられたら、もうここで終わりなのだろう。あるいは、それでもいいと、ここに居ろといわれたら、いつかは要らないと言われるのだろうか。その不安の影に、いつまでも怯えなくてはならなくなるのだろうか。 「おい。」  必要以上に大きな音量で晴人の声を拾い上げた耳が、体を跳ねさせる。その大仰な身体反応に、晴人は、また苦しげに目を細めた。 「座卓、どけるぞ」 「あ、はい。」  片端を持ち上げると、対面を晴人の厳つい手が持ち上げる。一史より長い腕を少し曲げて、高さをあわせてくれる。別に、自分に対してだから特別という訳ではないと思うが、晴人が、自分のことを好きだと言っただけで、どこかに自分のための行動が、感情が潜んでいるように思われて、あまい優越が胸に滲んだ。それをすばやくかき消したのに、じんわりと広がった赤いシミはイチゴのジャムのようにべったりとこびりついた。 「一史。」  座卓を部屋の隅に立てかけた瞬間、声をかけられて顔を上げた。目の前に日に焼けた肌が迫っていた。近くなりすぎて、視界がちぐはぐになる。唇に乾いてかさついた皮膚を感じた。弾力のある湿ったのは血をたっぷりと含んだ唇だった。  なぜ。  今なのだろうか。好きだといった言葉は、離れるのが怖いといった自分の言葉は、ちゃんと届くことはなかったということなのか。 「好きだ。」  何度目か、判らなくなるような思いの端をその唇が告げる。そして、強い腕に抱きすくめられる。胸に、強い髪が、埋まる。 「謝るのは俺だ。」  縋る様に、祈るように、晴人は言葉を紡ぐ。  紡ぐ端から解けるように、言葉は一史の胸に垂れて行く。 「お前がどんなに不安がろうと、俺はお前を諦められない。お前を欲しくて仕方ない。」  晴人の長身が、膝を折る。腰に巻き付いた腕は長い。胸から腹へ落ちた頭は額を埋めて表情も見えなかった。  呼吸する音だけが、静かになった部屋に聞こえていた。それも、晴人の呼吸する音だけが。  俺は、  どうやって呼吸したら良いのかさえ、忘れたように、ただ、息を詰めていた。  どこにも行けないのは、晴人も同じだった。逞しさを取り戻し始めている体躯が、何故か弱りきって生きる気力すらなくしていた頃の晴人に重なる。  大事なものを失くした時の、晴人に似ている。  似ていたが、  希求するように仰がれた目には、意思があった。
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