酷いこと、して。

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 正しく心拍を続ける心音が頭を抱く。髪を、吐息が撫でる。途方もない充足感と、安堵。同じ『抱く』と表現される行為であっても、昨夜の行為とはまた違った愛情を自分に伝えてくる。 「晴人さん、」  小さく呟いた声に答えはない。目の前でふくらみ、萎む腹から、短い睡眠の中に晴人が身を投じたのを感じた。  胸にぴったりと耳を寄せる。心臓の音が耳の奥に、頭の中に響いてくる。瞼を閉じると、背中に回された腕の熱が全身に広がって、温かな海に沈んでいくみたいだ。鼓動が、寄り添うように同じリズムを刻む。呼吸が、同じ深さになる。瞼を明るく照らしていく日の光が、海中から見上げた空みたいだ。  いつか、この腕を、ぬくもりを、失くすときが来るのだろうか。  ぎゅうと胸が狭くなり、また、睫が湿る。  こんなにも涙腺が緩むのは、今度こそ失いたくないと願いながら、何度も失ってきた所為だ。一度諦めてしまってからは、触れる人触れる人に、当たらず触らずの人懐こい振りで深い印象を残さないように接してきた。深く印象を残さなければ、深く触れられることもない。深くつながりを持てば、失うときはまた、辛い。どんなに辛くても感情を遮断できない自分は、失う度に苦しくて、失わないために、手に入れないことを選んできた。それを崩されてしまったからだ。 ―――でも、そう考えれば、初めから、  初めから、晴人は異質だったのか。  隠さず仕事に執着するこの人に、惹かれたのは確かに今までにない形での、執着だったのか。 ―――仕方なかった。  手に入らないと思いながら、憧れて追いかけて、弱みに付け込んで転がり込んで、自分に依存させたのは、一史の方だった。  現在(いま)の安息と未来(さき)への恐怖を晴人は一史に与えた。そんな、酷いことを、晴人は一史に与えた。  でもそれは、一史の求めていたものだったのかもしれない。 ―――なんて、酷い人だ。  胸に頬も耳もくっつける。晴人の腕が強まって、息すら覚束無い。全身で晴人の体温を求める。強い拘束で、自分を満たして欲しいと願う。 ―――それでも、いい。  瞼を閉じながら、安息と不安の狭間で揺れる心地よさに陶酔する。開放の恐怖に震えながら、この拘束を求めている。 ―――もっと、酷くして欲しい。  不安も安堵もひとまとめにして愛情なら、もっと晴人に捕らわれていたいと願う。
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