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「この柱のシミ、見えるやろ?」
ボクらは老人の指し示す柱のシミに顔を近づけた。
「このシミ?何なん、これ?」
「おんこち様がうちに来た時に触りはった跡なんやて。その証やって、奥さんが言うとったわ。」
「おんこちさま?なんやそれ?聞いたことないで」
「奥さんがな、生きてた頃から、毎日、夕飯の前には拝んでたんや」
そう言うと、老人は柱のシミに向かって手を合わせ「今を忘れない、今を忘れない、今を忘れない」と三回唱えて、パンパンと二回手を打った。
息子が戦地に行って音信不通のまま、1945年3月、大阪は一回目の空襲に見舞われた。亡くなった奥さんは、周りが空襲で焼け落ちていく中で、息子が帰ってきた時に我が家をすぐに見つけられるように、どうか空襲の被害に合わないようにと、この柱に毎日欠かさず手を合わせていたらしい。その頃から、このシミが目立つようになり、奥さんはこのシミを『おんこち様』という神様が訪れてくれた証だと信じて拝み続けていたらしい。お陰で、度重なる大阪の空襲にも、この一軒家は不思議なくらい大きな被害を受けずに済んだ。
しかし、終戦を迎えても、息子は帰ってこなかった。奥さんは、空襲が終わっても、ずっと亡くなる日まで毎日、いつか帰ってくる息子にとっての目印となるよう、この赤い屋根の一軒家を残そうと『おんこち様』の付けたこのシミへ手を合わせていたらしい。終戦後しばらくして奥さんが亡くなってからは、毎日、この老人が夕飯前に手を合わせているという。
「なんで、おんこち様なん?」
すっかり老人の話を信じてきっている三田くんと松村くんを横目に、ボクは老人に尋ねた。
「恵比寿さん、天神さん、御霊さんって、大阪の神様は『さん』を付けるのに、なんで『おんこち様』の神様は『おんこちさん』って言わへんの?」
老人は事も無げに答えた。
「奥さんは大阪やのうて、東北の人やからや。昔からの風習らしいわ」
古い赤い屋根の一軒家を出た頃には、空は暗くなり始めていた。
建設中のマンションの横を通り、三人はそれぞれの家へと帰っていった。
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