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「なあ…もう一回、いいだろ…?」
冗談に聞えない熱っぽい囁きが耳朶をねぶる。
「あ……いや」
馨は困り果てた様子で首を捻り、背後から抱きつく吟次を見た。
肩に顔を押し付けて吟次がこちらを見上げている。どうやら口元が笑っているらしいことを目の形で見破る。
「もう…よくも三十を越したおじさん相手にその気になりますね」
半ば呆れながら馨は込み上げる笑いを噛み潰している。
「あんたが還暦迎えた爺さんになろうと、おらぁ迫るからな」
にわかに想像すると末恐ろしい光景だが、この男ならやりかねない。
馨は堪え切れずに吹きだす。
その様子に愛しそうに目を細めた吟次は頬へ軽く唇を押し付けて開放してやる。
「まあ、時間は死ぬまでたっぷりあるし、今日はこのへんで許してやらぁ」
何が許してやるのかよく分からないけれど馨は一先ず急いで自分と吟次の着付けを済まし、逃げるように劇場を後にした。
大門から吟次の手を引いて飛び出すと外はすっかり肌寒く、吐く息を白く濁らせる。空気が凍って透き通っているせいか街頭の灯りが眩しい。
「寒いですね」と開きかけた唇を先取ったかのように吟次は馨の肩を抱き寄せた。歩道では家路を急ぐ通行人もちらほら居たが馨は人目を気にせず吟次の好きにさせてやる。
どこか真摯な覚悟さえ滲む行為に、無粋な言葉はいらない。胸に頭をつけながら馨は歩幅を合わせてくれる吟次と歩いた。
「愛してる」
低く囁いてくる声に馨も首を折って吟次を仰ぎ見る。
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